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江戸遊女の手練手管 [幕末 江戸]

最近江戸時代の生活に関連した本を読むのですが、時代劇によく登場

する場面にはいくつか間違いあることを知りましたので、

23つご紹介します。

 

  町奉行所には「北町奉行所」といった表札はありません

 

*武家の屋敷にはご公儀の役所でも大名屋敷でも表札は出さない

そうです。でも表札がないと視聴者にはわかりませんね。

 

  居酒屋にはテーブル、腰掛はありません。

 

*浪人者や職人さんが居酒屋で一杯の場面はよく時代劇に登場

 しますが、江戸時代、居酒屋・小料理屋では、畳の上に料理や酒

 をのせた盆をじかに置いたそうです。

 星一徹がひっくり返すようなちゃぶだいが普及

 するのは大正時代以降のようです。

 

  江戸吉原の遊女たちが、真っ赤な格子の内側に群がって、

 道行く男たちに声をかける。これもなしです。

 

*江戸吉原の定番の大事なシーンなのですが、小見世の中でも

 かなり下のクラスの河岸店の遊女でもなければ、こんな行儀

 の悪い真似はしなかったとのことです。

 

花魁.png

 

ちょっと江戸吉原の話です。

 

「夜と昼朝とに落ちる日千両」という川柳があります。

 

夜は吉原、昼は歌舞伎興行地、そして朝は日本橋の魚河岸。

この3か所には一日に千両もの大金が消費された、という川柳です。

 

娯楽施設の乏しかった当時、年中無休で営業する江戸吉原は最大の

消費場所なっていましたが、さすがに江戸も後期になるとライバル

岡場所(幕府非公認の遊郭地)の攻勢にもあって、厳しい営業努力

強いられるようになったそうです。

 

氏家幹人氏著の「これを読まずに江戸を語るな」という本に、不況を

乗り切るため妓楼の経営者が打ち出す新商法の

あれこれが書かれています。

 

遊女、芸者さんの料金引き下げは当たり前、茶屋の紹介をカット

(吉原では通常、引手茶屋を通して客を妓楼に案内する仕組み。

つまりシステムの改革)して料金の明朗化を図ったり、あるいは

料理とのセット販売価格を提示するなどの経営努力が記述

されています。派手な宣伝広告もありました。

 

中でも興味深いのは、妓楼経営者の遊女に向けた訓示。

 

遊女の3人に1人しか客をとれなかったほど経営不況が深刻化

するなか、経営者はなんとしても客数を増やしたい。

 

同著では青楼掟(青楼は妓楼のこと)という史料が紹介されています。

文字通り遊女に向けた訓示です。

 

「遊びに飽きたスレッカラシの客は要警戒。だが誠実で人柄が

いいだけで金離れの悪い客はイタダケナイ! 自分が選んだ遊女

だけは誠実で客を騙さないと信じている客こそ上客だ。

こんな客をつかまえたら金品を引き出すのが遊女の道だ」

 

「馴染みになった客には衣類・寝具などをねだるのが遊女の作法

である。ねだるといっても、あまりガツガツしては客が逃げる。

欲得を表に出さぬよう注意して、可能な限り搾り取るのが上策だ。」 

 

経営者は一方でまた、遊女に対しては、

 

病気になってもなるべく客をとるように!万一大病で年季を

勤め上げないで死ぬと判断したら、暇を出す」と訓告。

 

まさに冷徹非情な人物です。

 

だが、続くこの経営者の弁明がふるっています。

 

「私だってこんな掟を定めるのは決して本意ではない。

だが考えてもみてくれ。君たち遊女が私の言いつけをよく守って客を

騙し続けても、この世の中には遊女にハマって破滅する男が跡を

絶たない。ならば、もし遊女に誠の情があれば、身を持ち崩す客の数

は100倍にも増えてしまうだろう」

 

参りました!

 

 


直江兼続 tシャツ 花に背いて帰る [戦国グッズ]

戦国グッズ・幕末グッズの侍気分では、直江兼続tシャツ「花に背いて帰る」

をご用意させて頂きました。

 

私はNHK大河ドラマの天地人が好きで、放映時に何度か六日町や米沢

に行きました。

 

六日町大橋のたもとにお六の湯という足湯の施設があります。

坂戸城のある坂戸山に登った帰りに利用させて頂きました。

 

坂戸山は634メートルと比較的低山で、パンフレットには手軽な

トレッキングコースとして町民に愛されているとの旨書かれて

おりましたが、私にとっては実にハードでした。

 

途中思わず「わしは、こんなとこ来とうはなかった!」と

言ってしまいたくなりました。

 

この足湯の建物の天井部分に直江兼続の詠んだ漢詩がいくつか書かれています。

足湯につかりながら、・・・いい感じです。

 

格調高く、男女間の細やかな機微にも通じた漢詩。

直江兼続にはこのような一面もあったんだな~と感動してしまいました。

 

 

お六の湯.jpg

 

 

豊臣秀吉は直江兼続を評して

「天下執柄の器量人なり」とし、

 

京都妙心寺の住持南下玄興は

「利を見て義を聞かざるこの世にあって、利を捨て義を取る人」

 と兼続を評しています。

 

また湯浅常山の著した常山日記には兼続の人となりについて、

「長(丈)高く容儀骨柄並びなく、弁舌明らかに殊更大胆なる人」

と記されています。

 

天下無双のかっこよさ!です。

 

直江兼続は殖産、治水などでも手腕を発揮し、江戸期の名君上杉鷹山がその

藩政改革の手本とした優れた民政家でした。

 

兼続が農民指導のため記したとされる四季農戒書では、衆人の心情に

通じた農民心構えが諭されており興味深いです。

 

畑で懸命に働く亭主に昼食を届けに行く女房に、赤の頭巾を被るように勧め、

「赤い衣装の女房を、老若ともども男どもが見れば、その身は農作業で汚れて

いても、身体の疲れを忘れるだろう。農作業が終わり男どもが日暮れに

帰ってきたら、たらいに湯をもってきて、足を洗わせ、男の足を女房の

腹の上に置いて、撫でさすってあげなさい」・・・

 

 

天地人で、田中美佐子さん演じる母上が、加藤清史郎君が演じる幼い与六に、

 

もみじが散るのは、その(厳しい冬を生きる木)の身代わり、

燃え上がるあの色は己の命より大切なものを守るための決意の色。

そなたはこの越後の国のため、もみじのような家臣になりなさい」と言います。

 

与六の一生は決します。

 

最終回では直江兼続は縁側に座り、お舟とともに紅葉を眺めながら

静かに息をひきとります。

「私は立派なもみじの家臣であったか」

 

天地人、とても好きな大河ドラマでした。

 

 

直江兼続が詠んだ後半のみ今に伝わる七言絶句「花に背いて帰る」

 

春雁似吾吾似雁 洛陽城裏背花帰  

春雁 吾に似て吾雁に似たり 洛陽 城裏 花に背いて帰る

 

春の雁に似て、私もまた花の咲く華やかな都に背を向けて

帰らねばならない故郷に帰る。


必殺 中村主水の表家業と目明しについて [幕末 江戸]

中村主水の‘表家業’は南町奉行所定町廻り同心です。

 

江戸町奉行は南と北の2つに分かれており(確か中村主水は当初

北町奉行所勤務だったと思います)それぞれ奉行が1名ずつおり、

隔月で事件を担当します。

町奉行は司法(裁判所・牢獄)、警察(警視庁)業務を執り行う

のみでなく行政(東京都庁)担当もしておりますので、今で言えば

東京高等裁判所判事+警視総監+東京都知事の重要ポジションです。

 

大変多忙です。

 

町奉行の配下に与力、同心がいます。

江戸町奉行所の与力は南北各25名、同心は江戸末期で各120名。

このうち捕物(警察業務)に関係するのは、定町廻(じょうまちまわり)、

臨時廻、隠密廻の三廻の同心です。

 

中村主水さんはこの定町廻りの同心です。

 

 中村主水.jpg

 

ただこの三廻の同心の人数は僅かに25名程度(時代によって異なります)。 

これだけの少人数で江戸の治安が守られたのでしょうか?

 

江戸の町には実に見事な町政が布かれていました。

3名の町年寄と江戸の各町々を支配する名主そして家主との間で優れた

連携伝達機能が働き、高度な自治が可能でした。

奉行所の手を煩わさないで、かなりの程度で問題解決が可能だった訳です。

 

また銭形平次や伝七親分に代表される?目明し(岡引)の存在も忘れては

ならないでしょう

 

しかしこの目明し、どうも町人の評判はあまり良くなかったようです。

目明しは岡引の他、手先あるいは御用聞などとも呼ばれ、町奉行所の正式

な要員ではなく、あくまで同心の私的な使用人です。

 

彼らは江戸の裏事情に通じた元犯罪者の出身が多く、仲間の密告などで

罪を目こぼしされた者などが同心の手先となって犯罪者の検挙に働く

という事だったのですが、実態はゆすり、たかりの常習者が随分といました。

昔の悪人仲間を売ったりもしました。

 

嫌われ者にもなりましょう。

 

 石井良助著「江戸の刑罰」という本に随分と残酷な話が紹介されています。

 

目明しが罪を犯し、小伝馬町の牢屋に入牢するシーンです。

 

「モシ二番役さん、こいつは岡引で、ワーチラ二人はこいつのために縄目

に逢い、憂き目を見せられやした。どうぞ宜しくお願いします」

二番役さんは、牢名主と相談し、「この新入り(岡引)に御馳走を取らせよ」

と配下の囚人たちに命じます。

囚人たちは御馳走がこんもり盛られたお椀を岡引に渡して、

「これ神妙にいただけよ、遠慮すると、お替りつけるぞ、それ早く頂け」

 

岡引は食べます。容赦なく2つ、3つと岡引の前に椀が運ばれます。

 

皆さん、椀の中身はなんだと思いますか?

人糞です。

 

お食事前後の方、申し訳ありません。


品川遊郭でシーボルト驚く! [幕末 江戸]

 

江戸の川柳には面白いものが沢山ありますが、今日のチョイス

これです。

 

品川の客 にんべんあるとなし」

 

にんべん(人偏)あるのは侍、にんべんなしは寺。

品川(遊郭)のお客には侍と僧侶が多いという川柳です。

 

品川はご存知東海道の宿場町で往時180軒を超える妓楼が並んでいました。

品川辺りには、大藩の薩摩藩が芝、高輪、田町に藩邸を持ち、また多くの

藩の下屋敷も点在していました。

また当時の東海道筋に当たる芝の増上寺とその支院が密集していたため、

侍と僧侶が品川妓楼の上顧客となっていたようです。

 

最も品川は宿場町とはいえ江戸はもう目と鼻の先、宿泊目的ではなく、

旅立つ友人を見送りがてら遊郭で遊ぶ江戸人の記録も多く残っています。

 

幕末、高杉晋作や久坂玄瑞など著名な長州の志士たちがよく利用したと

言われる土蔵相模もこの品川宿にあります。

 

シーボルト.jpg

江戸後期に来日した植物学者シーボルトは1826オランダ商館長に随行

しますが、その際品川宿で立派な身なりの侍が遊郭から‘ごく自然に’

出てくるところを目撃、江戸参府旅行記で品川遊郭について以下のように

記しています。

 

「このような施設は料理屋と同様に、日本では生活に欠かせぬものと

されているようだ。真昼間に遊郭から出てくるのは、我々の国で言えば

喫茶店から出てくるのと同様に、問題にならないようだ」

 

うーん、江戸は遠いのか近いのか!?


鹿鳴館 西欧に追いつけ! [幕末 江戸]

 捨松.jpg

 

録画しておいた八重の桜

「鹿鳴館の花」いまごろ見ました。

 

会津藩家老山川家の末っ子であった捨松は11歳の時

岩倉使節団と共に渡米、帰国後薩摩の大山巌と結婚

その洗練された西洋風マナーと美貌から鹿鳴館の花と

呼ばれた。捨松という名は、前例の無い女子の留学

際して彼女の両親がさき という名を改名して末娘

に付けたもの。

「捨てた気持ちで娘の帰国を待つ」から付けられた名前

だそうです。

 

鹿鳴館は国外からの賓客、外交官をもてなすための

言わば社交場であり、当時の外相井上馨の提唱により

明治政府が明治16年に建設しました。

江戸末期に外国と結ばれた‘不平等条約’の改正を悲願

とする明治政府が開いたこの社交場は井上馨が外相を辞任

する明治20年まで時の政府が推進した欧化政策の象徴的

な存在として、‘鹿鳴館外交’の場となった。

 

当時の明治政府がとった、言ってみれば必死の欧化政策。

それを象徴する鹿鳴館。

(日本は刀を差したサムライが跋扈する未開の遅れた国

では断じてなく、貴方たちと同等の西欧流のマナーと

高い文化を持った国である。日本は平等な条約を結ぶに足る国家

なのだ。 

我らが開く鹿鳴館の舞踏会へようこそ!

 

逸話を一つ。

 

英国の詩人エドウィン・アーノルドは明治22年に来日した

際に日本について非常に好意的なスピーチをする。

「日本の景色は優美、その芸術は絶妙、人々は高い礼節

を持つ。地上にある国で最もパラダイスに近い国ではないか。」

 

このスピーチについて、新聞各社の論説は一様に憤激模様!

「アーノルド氏のスピーチは我が国の政治、産業、軍備に

ついて触れず、もっぱら風景や美術について終始した。

実に不愉快だ。」

 

当時の日本の気分が察せられる話です。


戦国の家族 [戦国]

喜多川歌麿 母と子.jpg 

 

戦国期を扱うドラマでは、ドラマの主人公となる戦国武将の

夫婦間や親子の間の情愛がしばしば作品のテーマとなります。

しかし、戦国期の庶民の家族がドラマなどで取り上げられる

事はありません。

何故か? 

庶民の有り様を記す記録が乏しいから。

あるいは、極論すれば、家族が存在しなかったから!?

 

江戸徳川期では、武士も庶民(農民、町人)も家を単位として

集団が組織されていました。大名の家臣は家を単位として

各藩藩主と主従関係を結び、農民は家を単位として人別帳に

登録されていました。

 

しかし戦国期以前ではどうやら多数の庶民は未だ家を形成して

いなかったようです。庶民の多くは有力農民、荘園領主に隷属。

当然彼らは、「固有の家名・家産・家業を持つ父系直系のラインで

継承されるべき家」を持たなかった。

 

市場(貨幣)経済の進展により、この隷属農民の労働力に依存する

生産スタイルは徐々に減じて、戦国期の後半以降小農民の自立が

より活発化します。

貨幣が普及し都市的集落が誕生すれば、農民の生産目的において、

従来の貢納と自給だけではなく、利潤の獲得が大きな意味を持ちます。

働くことのモチベーションが大きく高まる訳ですね。

 

隷属する農民から自立する農民への移行によって、家の形成が

農民の間でも進み、それに伴い村共同体が各地で多く誕生します。

 

そして兵農分離と太閤検地の一地一作人制により農民の自立は

一層加速され、家が社会秩序の編成単位となります。

 

庶民の家族の誕生です。

 

そして江戸徳川期に家族の時代が始まります。

庶民の家、家族が夫婦を軸として営まれ、子供教育に熱意を

傾け、家の恒久の存続を願う時代です。


抜刀隊 トートバッグ    [幕末グッズ]

明治10年の西南戦争で最大の激戦となった田原坂の戦い。

 

剽悍無比の薩摩隼人の斬り込みの凄まじさに、政府軍は各所

で退却を余儀なくされ、戦況の悪化が憂慮されていました。

西郷軍の斬り込み攻撃は、主に徴兵された平民で構成された

鎮台の兵卒のみならず、士族あがりの士官をも戦慄させました。

 

この西郷軍の白刃攻撃に対抗するため、政府軍は警視隊(警官)

より剣術に優れた者たちを抜擢する。

 

司馬遼太郎の「翔ぶが如く」に、警視隊の上田大警部が

政府軍の総司令官山縣有朋にたいして剣術に優れた警官の前線投入

を上申する場面が書かれています。

 

「上田は、武器はいっさい持ってゆきません。太刀のみを持ってゆき

近接して敵塁に飛び込み、斬撃に次ぐ斬撃をもってこれを

砕きます、と言った」

 

山縣有朋はこの上申を許可し、その隊名を 抜刀隊 と名付けた。

 

 カバン2.jpg

 

戦国グッズ・幕末グッズ専門店の侍気分では、この抜刀隊をモチーフとしたトートバッグを作成しました。

ご興味のある方は侍気分HPをご覧いただければ幸いです。

 


厳しい戦国の世 飢饉と疫病 [戦国]

450年の間に、飢饉は169件、疫病は182件。その多くが同時

に起きており、重複分を合わせると400件余り。大まかに言えば、

中世の社会では記録されるほどの飢饉と疫病は、ほぼ毎年

のように起きている。

 

藤木久志「飢餓と戦争の戦国を行く」を読みました。

藤木氏は保元・平治の乱の直前(1150年)から

関ヶ原の戦い(1600年)までの450年間の災害記録を

データベースにし、同書の巻末に年表として載せている。

 

ほぼ毎年のように、日本のどこかで、時にはかなりの広範囲

にわたり、記録的な飢饉、疫病が起きている。衝撃的です。

 

また同書は450年の期間を、前半(源平の戦いから応仁の乱)と

後半(応仁の乱から関ヶ原の戦い)に分け飢饉と飢餓の分布を紹介。

前半期は3年から5年に1回の割合で、間欠的・集中的、

一方後半期は2年に1回の割合で、慢性的に発生しているとの傾向

を指摘している。

 

藤木氏は、戦国の世の戦争は、慢性的に起きている飢饉と疫病の中で

戦われてきたとの印象を述べています。

 

大坂夏の陣の屏風絵には略奪にはしる徳川方の雑兵たちの姿が描かれて

います。

戦国期、戦いの後には捕虜とされた人々を売り買いする‘市’が立った

と伝えられています。

 

飢餓、疫病、戦争 やはり戦国の世は想像以上に厳しい時代だった

のかもしれません。

 

 大坂の陣屏風絵より.jpg

 

大坂夏の夏の陣図屏風


吉田松陰 二十一回猛士マグカップ  [幕末グッズ]

吉田松陰は多くの手紙を残しています。

僕は特に兄の梅太郎と交わした手紙が好きです。

深い兄弟の愛情が感ぜられ、何とも微笑ましい気持ち

になります。[晴れ]

 

松陰は兄に「自分はこれまで3回の猛を奮ったから、あと18回の

猛を奮う覚悟です」と兄への手紙に書きます。

兄の梅太郎はこれに対し、「決意は立派だが、あと18回も

猛を奮われたらたまらないので、どうか勘弁願いたい」と

返書します。

 

二十一回猛士の号は、密航失敗後に松陰が自らつけたものです。

二十一は松陰の生家の姓である〈杉〉を崩すと十、八、三となり、

これを足し合わせて二十一になる、また猛士の猛は松陰の通称名である

寅次郎の寅=猛からつけ、よって二十一回猛士の号を名乗ったと言われて

います。

 

1854325日の深夜、渡海の志を抱く松陰先生と弟子の重之輔は

下田に停泊中のペリーの乗艦ポーハタン号を目指し小舟を漕ぎ出します。

 

松陰先生が3回目の猛を奮った時です。

 

この密航の情景をのせたマグカップを作りました。

ご興味のある方は是非侍気分HPをご覧ください。

 

 

 P1000445.JPG


高杉晋作 Tシャツ 雷電風雨 [幕末グッズ]

高杉晋作は3度の脱藩を繰り返す。

3度目の脱藩から帰藩した高杉は英米仏蘭四か国の連合国艦隊

との講和を藩から命ぜられる。手には蛇の目傘を持ち、芸妓数人を連れて

講和の席に現れた高杉晋作は、巨額の賠償金を求める連合国側に対し、

長州藩がこれを払う道理なしとの主張を押し通す。

長州藩内の体制は幕府への恭順を主張するいわゆる俗論党が主流となっていたが、

晋作は創設した奇兵隊を結集し俗論党に戦いを挑む。これに勝利し、藩政は正義派

が握り、藩は再び尊王に復す。

その後幕府より第二次長州征伐の命を受けた松山、小倉などの諸藩が長州藩境に

迫ると、晋作はまさに神出鬼没な指揮を振るいこれを撃破。長州側が勝利を得る。

しかし結核に冒された晋作は29年の短い生涯を終える。

明治42年建立された高杉東行碑への揮毫を依頼された伊藤博文は、高杉晋作を評し、

「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し 衆目騒然として 敢て正視するものなし

此れ我が東行高杉君に非ずや」と記した。

 

 T.jpg

 

まさに風雲急を告げる幕末期に時代をロックし、駆け抜けた高杉晋作を

モチーフとした高杉晋作 雷電風雨Tシャツを作りました。

ご興味のある方は侍気分HPをご覧いただければ幸いです。

 


山岡鉄舟と清水次郎長 [幕末 江戸]

幕末の著名人物の名言集読んでいます。

山岡鉄舟が東海一の大親分清水次郎長に向け揮毫した言葉

がいいですね。

 

明治元年9月に房州沖で破船し清水湾に修理のため停泊中の幕府旗艦咸臨丸が

官軍側の攻撃を受け幕軍兵士に死傷者が出た。

 

東海一の大親分清水次郎長は港湾内に浮かぶ‘逆賊’幕軍兵士の遺体を手厚く葬った。

官軍の目を恐れた駿府藩役人がこの親分の行為を咎めると、親分は「死ねば仏さ、

仏になったら官軍も幕府もないさ」と啖呵をきったそうです。

 

駿府藩大参事山岡鉄舟はこの親分の態度に感服、両者の親交が深まります。

 

後年、次郎長親分が山岡鉄舟に「山岡先生、悟りとは?」と

問いかけます。

山岡鉄舟答えて曰く「精神満腹」。

 

山岡鉄舟が揮毫した書は清水にある親分の菩提寺梅陰禅寺に

展示されています。

 

山岡鉄舟.jpg

 山岡鉄舟

 

次郎長親分は「坂の上の雲」でも有名な軍神 広瀬武夫中佐とも

親交があり、広瀬中佐は親分の若かりし頃の武勇伝を喜んで聞いていたそうです。

広瀬中佐が親分に「親分、喧嘩で相手に勝つ方法は?」と尋ねると、

親分は「一にも二にも肝っ玉一つさ」と答えたそうです。

真田幸村  日本一幸せな兵 [真田幸村]

 

いわゆる歴史系のテレビ番組が好きでよく見るのですが、強く印象に残っているものがあります。かなり以前に放映されたものですが、NHKの歴史ヒストリア。真田幸村を取り上げたもので、幸村が故郷上田に送った手紙が紹介されました。

 

「せっかく頂ける焼酎ですので、どうか中身がこぼれないよう口をよく締めてください」

「最近は寄る年波で、髭も白くなり、歯も抜け落ちてきた」

 

ゲームキャラ、アニメにも数多く出演?する人気者の真田幸村のイメージとは全く異なる手紙の内容に驚きました。

 

 

 真田幸村 戦国バサラ.jpg

「 戦国Basaraより」

 

 

手紙は昌幸、幸村の真田父子が惨敗を喫した関ヶ原合戦に連座した罪により処刑されるはずのところを幸村の兄信之の尽力で死一等を減ぜられ、高野山に流罪、その後移った山麓の高野山領である九度山での配流時代に書かれたものでした。

 

幸村は34歳から48歳まで実に14年間もの長い期間にわたって隠忍の日々を過ごします。

実際幸村の九度山での生活ぶりを伝える資料は乏しく、そこに真田十勇士などの伝説も生まれました。

 

幸村は幽居の日々をどう過ごしていたのでしょうか?

大阪の陣であれほどの華々しい活躍をした幸村ですから、「情勢分析に余念がなかった」、

「上記の手紙も徳川を油断させるためのもの」であったなどの見方もあります。

ただ14年はあまりにも長い。いわば働き盛りの人生の期間を幽居の身で過ごさねばならなかった幸村の心情は決して穏やかなものではなかったはずです。

豊臣側に請われ大阪城に入城した時、幸村には心中大いに決するものがあったでしょう。

 

武将にとりその名を後世に留めることがその宿願であったなら、400年もの後の時代の人々の気持ちを高揚させる真田幸村はある意味‘日本一の幸せな兵’だったような気がします。

yukimura1.png 

 真田幸村Tシャツ

 

戦国・幕末グッズ 侍気分

 

 


猫侍 と 狆 [幕末 江戸]

猫侍という幕末期江戸の長屋を舞台にしたドラマが楽しいです。

日曜日の夜11時という微妙な時間帯、BSチャンネルの放送です。

 

主人公は冴えわたる剣技を持ちながらも、残念ながら浪人中の班目久太郎(北村一輝)。

この浪人が白い猫を見つめる表情に何とも言えない可笑しみがあります。

猫侍.jpg

班目久太郎と猫の玉之丞

 

前回では、猫の食い扶持を稼ぐため、武士の生業にあらずと避けていた笠張り

を意を決して始める場面がありました。

 

特に筋書きがあるわけではないので途中回から見ても問題無しです。

癒し系の幕末劇?です。

 

江戸期大奥では猫よりも、かなり多くの犬が飼われていたそうです。

犬種は狆(ちん)です。最もこの時期小型犬は総称として狆と呼ばれていたようでもあります。狆は日本最古の改良品種犬です。

 

狆は大奥や吉原でも座敷犬として大いに人気を博したそうです。錦絵にも狆を抱く艶やかな着物を着た女性の姿が多く描かれています。 

狆の白黒色の紋様が女性の着物の柄、色彩を美しくひきたてたことがどうやら人気の

理由だったようです。

狆はファッションの一部でもあったようですね。

 


会津藩主 松平容保  義に殉ずる [松平容保]

 

松平容保は文久二年(1862年)会津藩兵千余名を率いて上洛、京都の治安維持に努めます。翌文久三年薩摩藩と協力し、八月一八日の政変を敢行し尊攘激派の公卿、長州攘夷派や諸藩脱藩浪士を京の都から一掃しました。

孝明天皇はこれを大いに喜ばれ、同年109日付で松平容保に宛て御宸筆の手紙を送ります。またその手紙の箱には下の2首の和歌が収められていました。

 

和らくもたけき心も相生のまつの落葉のあらす栄へむ

武士とこころあはしていはほをもつらぬきてまし世々のおもひて

 

松平容保は深く感動したと想像できます。

(八重の桜で綾野剛さんはかなり素晴らしい演技をしていると思います。感激し上気した顔の表情を見事に表現していたと思います。)

 

松平容保.gif

 松平容保

 

「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」

この会津家訓第一条と孝明天皇が松平容保へよせた深い信頼にたいする感激が容保のその後の姿勢を決したと思います。

 

しかし、この御宸翰(天皇の手紙)の存在が公になるのはなんと明治44年です。

 

松平容保は新政府によって朝敵と名指さしれても、御宸翰を納めた竹筒を終生懐から離さず、朝敵の汚名に耐え、自ら御宸翰の存在を明らかにはしなかった。

逆賊の汚名を受けた旧会津藩士の雪冤運動の一環として、山川浩・健次郎兄弟の発案で

「京都守護職始末」という歴史書が明治30年に編纂開始。明治35年に脱稿されますが、

山川健次郎の手元に秘蔵されます。(松平容保は明治26年、山川浩は明治31年に死去)

 

明治新政府の要職者の間にも徐々に「京都守護職始末」の存在は知られてきます。御宸翰をその根本史料としているため、同書が明治維新の成就があくまで勤皇という大義名分によるものとした政府の立場をある意味覆すものになるとの懸念が政府要人にありました。

 

時に会津松平家の財政難を救うための運動を繰り広げていた山川健次郎は、松平家救済金を宮内省から下賜される代償として「京都守護職始末」の出版を当分の間見合わせることとしました。

 

「京都守護職始末」が公刊されてのは明治44年、戊辰戦争が終結してから実に40年以上が経っていました。


会津藩藩祖 保科正之公 [松平容保]

徳川第2代将軍の秀忠は非常に謹直な人柄だったそうです。側室も一人も持たなかった。

生来の真面目な性格に加え、細君への遠慮のためです。細君は秀忠より年長で、秀吉の養女であり、また性格もかなり嫉妬深かったといわれています。細君はご存知江姫です。

そんな秀忠もただ1回、他の女性に手を付けた。相手はお静という大奥のあまり身分の高くないもので、この1回の浮気でなんと妊娠してしまいました。困った秀忠は大いに慌て、父家康の側室に事情を含んで、お静を預けました。そして生まれてきた男の子を家臣の保科正光に預けた。保科正光はこの男の子を自分の子として育てました。この子が成長して会津松平家初代藩主の保科正之となります。

保科正之公.jpg

保科正之公肖像画

 

この名君の誉れ高い会津藩藩祖が残した15箇条の家訓は度々八重の桜でも紹介されています。特に7箇条の「外で女子と話してはいけません」最後に加えて記された「ならぬものはならぬ」はすっかり有名になりましたね。


タグ:保科正之
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