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侍のお正月 [幕末 江戸]

侍気分は明日、明後日 鎌倉で臨時出店します。

詳しくは侍気分HPをご覧ください。

 

千代田の正月.png 

 

江戸期、武家屋敷では暮れの28日の早朝に門飾りにとりかかった

そうです。

町人の気が早い輩は12月になるのを待ちかねて門松をたてたそうです。

 

門松は元来、年神様を家に迎え入れるための依り代で、江戸期の門松は

松の先を切らないで、地面からそのまま随分の高さのものが飾られて

いたようです。

中でも吉原遊郭に飾られた門松は立派で、空をつくような大きなものが

飾られたようです。

 

現在では、家の門に葉の無い竹を立て、根元に松を添えるのが普通ですね。

竹の先端部分は槍の切っ先のように斜めに鋭く切ってあるものが多いです。

文字通り竹槍のような塩梅です。

 

この竹の先端を鋭く斜めに切ったのは、徳川家康が武田信玄に大敗を

喫した

三方ヶ原の戦い(元亀31222日)のときの故事に由来する

そうです。

 

戦に大敗し、家康は命からがら浜松城に逃げ帰ります。

元亀4年元旦、武田方より家康のもとに元旦の祝いの句が届けられます。

 

句は「松枯れて 竹たぐいなきあしたかな」。

松は松平(徳川の別称)、竹は武田。

徳川は衰亡し、武田の将来はいよいよ盛んであるとの意味です。

 

読み上げられた句に消沈する家康家臣の中にあって、家康四天王のひとり

である酒井忠次が「武田め、何をうたうか!正しき句はこうだ!」と叫び、

一句読み上げます。

 

「松枯れで 武田首なきあしたかな」

 

徳川方の意気はこの句のおかげでおおいにあがったそうです。

やがて武田を滅ぼした徳川は、竹の上端を(首を刎ねたように)鋭く

切った門松を、開運のしるしとして飾ったそうです。

おめでたいというより、むしろ怖い由来ですね。

 

磯田通史「江戸の忘備録」に侍の正月について面白い話がありました

のでご紹介します。

 

同書で今の年賀状の習慣は、江戸の侍の風習に根ざしていると推察

されています。

 

江戸期の侍は年賀状を書く必要はありませんでした。

侍は区割りされた一角に住んでいたため、正月になれば年始回り

と称して手に名刺を持って同僚の屋敷を20軒程度挨拶して回った

そうです。

名前の右肩部分に「謹賀新年」と書き込んだ名刺をお互い同僚の

留守宅(主人は挨拶回りで不在)に置いて回るそうです。

 

商人などは名刺代わりの手ぬぐいや扇子を置いて回ったらしい。

明治の世となり、侍たちもそれぞればらばらになると、互いの家も

離れ、正月の名刺配りもできなくなったため、賀詞を添えた名刺

封筒に入れて送りつける。

 

明治6年に郵便はがきが誕生すると、はがきを名刺に見立て郵送

し始めます。

 

つまり年賀はがきのもとは年賀名刺であったとの推察でした。

 

江戸の後期にはすでに侍の間でもお年玉の習慣もあったようです。

お年玉といっても大人のお年玉です。

 

年賀の挨拶を受ける家では、年賀にきたお侍さんのお供の人たちに

お金を包んでわたしたそうです。

結構な出費だったでしょう。

 

侍は通常時代劇にあるように1人で外出しません。

年賀の挨拶も数名のお供を連れていきます。

 

例えば江戸町奉行所の与力(必殺シリーズ中村主水の上司である

中村様のポジション)が元日に奉行のところに年始の挨拶に行くときも、

大小の刀を差した若党1名の他に御用箱持ち1名、草履取り1名、

槍持ち1名、挟箱持ち1名など合わせて4,5名のお供を連れて

いきます。

 

 

お読み頂きまして有難うございます。

皆様、良い新年をお迎えください。


黒船がやって来た!! [幕末グッズ]

*戦国グッズ・幕末グッズの侍気分は201411日・2日の両日

鎌倉にて臨時出店致します。詳しくは侍気分HPをご覧ください。

 

 cap5.JPG

 

侍気分 黒船ニットキャップ

 

 

 

黒船が来た!

 

ペリー提督が率いる4隻の黒船(蒸気船)が浦賀沖に現れます。

時は嘉永6年6月3日(1853年7月8日)。

 

「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も眠れず」

 

上喜撰(じょうきせん)は宇治高級茶のブランド名、

黒船がたった四隻現れただけで、徳川幕府が慌てふためく姿を

うたった狂歌です。

 

黒船来航は徳川の世に強烈な危機意識をもたらしました。

 

急ぎ西欧諸国に追いつくための近代化をすすめ、危機を乗り切るべし!

危機をもたらすものは、断じてこの国の領土に上陸させてはならない!

 

開国!と攘夷!に国論が二分され、攘夷はやがて討幕に向かいます。

この年より僅か15年後に幕府は崩壊します。

黒船の来航は幕末維新胎動のまさにきっかけとなった事件でした。

 

「幕末風塵録」という本に、この黒船来航について面白い話が紹介

されています。

 

4隻のペリー艦隊は翌年の再航を約束して、江戸湾を去ります。

対応に苦慮した幕府は、広く全国の大名、幕府役人、諸藩の藩士、

加えて一般の町民に対しても「

良い案があれば忌憚なく意見を建言せよ」と布告します。

大名や役人たちの意見は「なるべく穏便に」というものが大勢を

占めますが、江戸町民の意見は威勢のいいものが多い。

 

吉原遊女屋の主人 藤吉 の意見

「夜中、黒船の下の海底に潜水夫を使って鉄の棒をたてる。

干潮になれば船の吃水が下がる。そうすれば船底に穴が開いて沈没

するに違いない。

この案が成功したら、褒美として吉原遊郭の繁盛のため山谷堀も船宿

経営の免許を下さい。」

 

材木問屋 中村屋源八 の意見

「江戸湾入り口の水底に丸太杭を打ち込み、水柵を2重3重に設けて、

柵の内側に石を詰め込む。

水柵の内通りに筏を組んで、その中に味方の船が通る水門を

開けておく。

黒船が来たら水門を閉めて通航不可能にする。

この意見が採用されましたら、水柵には私どもの木材をご使用下さい」

 

江戸町民の抜け目なさが発揮されています。

 

またペリーが下田に再航した時には、こんな話が残っています。

 

村人たちの‘ある振る舞い’に、ほとほと困惑したペリー提督は

幕府役人に抗議します。

その振る舞いとは、村人が面白半分に水兵さんに春本(エロ本)を

与えたり、ボートに投げ込んでくるというものでした。

村人たちのにやついた顔が目に浮かびますが、

あまり上品とはいえない お・も・て・な・し です。

 

 

外国人にたいする認識はごく少数の開明的な人たちを除けば、

武士もまた庶民と同程度のものでした。

 

ペリー率いる黒船来航から10年後の文久3年(1863年)に

薩英戦争が勃発します。

薩英戦争とは、前年におきた生麦事件(島津久光の行列を横切った

英国人4名を薩摩藩士が殺傷)の賠償金請求のため鹿児島湾に入港した

英国艦隊と薩摩藩のあいだでおこなわれた戦いです。

 

英国軍艦への斬り込み決死隊を募った薩摩藩庁は、決死隊隊員たちに

このような訓示を与えています。

「諸君が今より戦う異人は足にかかとが無い。だから靴にかかとを付け

歩いているのである。異人と戦い危機となれば、靴を奪ってしまえ!

靴を失えば、異人どもは転倒して歩けなくなる」

 

 

黒船来航よりおよそ170年後の2020年、東京オリンピック

が開催されます。

江戸のホテルに泊まれば [幕末 江戸]

 

*戦国グッズ・幕末グッズのお店 侍気分は2014年1月1日・2日の両日

鎌倉にて臨時出店致します。詳しくは侍気分HPをご覧ください。

 

 

 呼び込み.png

 

イザベラ・バードという英国の女性旅行家がいました。

彼女は1878年に日本の東北地方を旅し、「日本奥地紀行」という本を

著しました。

恐らく東北を旅した最初の西洋人女性でしょう。

 

彼女は旅の先々で人々の好奇の目を集めます。

彼女が秋田の神宮寺村(現大仙市)に宿泊した時の様子について、

同著にこんな記述があります。

「神宮寺の宿屋に宿泊すると、夜中に人の気配がして目が覚めた。

およそ40人もの男女が部屋の障子を取り払い、私の寝姿を黙って

見入っていた」

当時の人々の好奇心は理解できるのですが、これは少し怖すぎます。

 

障子を外せば容易に宿泊者のプライバシーを覗きこめてしまう宿屋。

これは宿泊者にとって不安なことです。

 

ちょっと江戸の宿屋の話です。

バードが旅した明治10年の宿屋、江戸期のそれと変わらぬはずです。

 

江戸時代、一般の旅人が泊る宿屋は旅籠(はたご)と呼ばれます。

街道筋の宿場には本陣と称する宿屋がありましたが、こちらは大名や

公家など身分の高い人が利用するものです。

江戸も18世紀後半にもなれば、「伊勢参り」や「金毘羅参り」に

代表される「信仰の旅」から(あるいはこれを口実とした)、

「娯楽の旅」が盛んとなり、有名寺社の周辺や街道筋にも多くの旅籠

が並びます。

 

旅籠の多くは飯盛り女と称する娼婦をおいており、これをおかない

旅籠は平旅籠と区別されています。

他、宿泊の目的により宿屋の種類もいくつかありますが、一般的な

旅籠についてちょっと書きます。

 

相部屋はかなり普通にあったようです。

客で混雑すれば相部屋になり、全くの赤の他人と枕を並べて寝る

ことになります。

もっとも冒頭のバードさんの旅行記にもあるように、間仕切り

ふすま・障子が利用され、壁がなかった旅籠ではプライバシーがない

という観点では相部屋でなくともあまり差がないのかもしれません。

となり部屋の声も筒抜けです。

 

当然ながら当時の旅人も特に相部屋になるときには、相宿の相手の

身なり、振る舞いを注意深く観察し用心を怠りません。

盗難も頻発していたらしいですから、用心が肝要です。

 

 

食事は晩飯と朝飯が提供され、頼めばお弁当も作ってくれます。

部屋食が一般的で、宿泊者が一堂に集まり食事をとるということは

なかったようです。

一部の料理宿(グルメ宿)を除けば、旅籠の料理はさほど大差なく

ごく普通であったようです。

 

 

元禄期には旅籠にお風呂がもうけられていたようですが、衛生上問題

のあったものも多かったようです。

沸かし湯にしてもどの程度の頻度で湯を沸かしていたかはなはだ疑問

で、小さな風呂桶に入れ替わりに宿泊者が入浴するのであまり衛生的

とは言えなかったようです。

 

 

寝具敷布団一枚に掛布団が一枚。

寒ければもう一枚掛布団が提供されます。

この時代、シーツなどはなく、浴衣の提供も一般にはありません。

 

旅籠の寝具についていえば、ノミ・シラミが宿泊者を悩ませた記録が

多く残っています。

いったんお客がノミ・シラミを持ち込めば、有効な消毒薬のなかった

当時では根絶は困難だったのでしょう。

 

 

最後に気になる宿泊料金ですが、現在の価格でおおよそ45千円が

普通だったようです。

今のビジネスホテルの料金と比べると、同程度か幾分安めでしょうか。

「いき」の誕生 [幕末 江戸]

 

 

 

*戦国グッズ・幕末グッズの侍気分は年初(11日、2日)鎌倉

臨時出店します。どうぞ宜しくお願いします。

 

 

辰巳芸者.jpg

 

 

「バブルファッション:じわじわと スタジャンが若者に再燃」

毎日新聞にこんな見出しの記事がありました。

 

スタジャンに限らずバブル時代のファッションが注目されている

ようです。

バブル期のファッション・・・DCブランド、かなりワイドな肩パット、

女性の太い眉毛と真っ赤な口紅、クルクルヘアー、

強烈なイラストプリントなどなどでしょうか!?

 

江戸でバブルといえば華やかな元禄期(1688~1704年)バブル。

十七世紀末、元禄の世。

富裕な豪商たちが主役となり、奢侈な風俗を誕生させます。

遊里に入り浸る新興の富裕商人たち、芸事に溺れ身を滅ぼす

二代目の若旦那。

紀伊國屋文左衛門などよく知られた元禄商人ですね。

 

以前書きましたが、17世紀に「徳川の平和」を背景に、市場経済の

浸透、婚姻・夫婦の時代到来による人口の急増、耕地面積の拡大など

により江戸の経済は大きく成長します。

 

元禄は高度経済成長を甘受した富裕商人層が演出した華やかさが

ありました。

 

ただこの時代は、これぞ江戸ファッション!ともいうべき江戸固有の

ファッションはまだ見られず、京都風のいでたちが流行の中心でした。

 

18世紀に入るごろから、さすがの経済成長も頭打ちとなります。

加えて財政難に苦しむ幕府は緊縮政策を実行していきます。

貨幣の改鋳、贅沢禁止令・・・

 

バブルがはじけ、江戸文化の様相も変わります。

特権的な商人にかわって、小売商人や職人が進出し、町人らしい町人を

基盤とする江戸文化が誕生していきます。

 

「既説 日本服飾史」という書物にこんな文章があります。

 

「江戸後期には、それまでの上方風の好みとは異なる江戸風の好みが

江戸町人の間に生まれ、やがてそれが「いき」の美意識を成立させた。

多彩で華やかな紋様とは違って、茶・鼠・青を基調とする渋い色合いの

無地や縞や小紋に、黒を効果的に取り合わせるなど、抑制のきいた

外見をもち、内側の衣服に華やかさを秘める好みである」

 

手ぬぐいなどでもお馴染みの江戸柄の誕生ですね。

 

同書によれば、渋い色合いの無地や縞、細密な小紋は江戸の前期には

若い女性の衣服に好んで使われるものではなく、男性もしくは年配の

女性が着るものであったそうですが、18世紀の中ごろから一部の町人

の女房やいさぎよい気風を売りにする江戸深川の芸者衆が着はじめ、

その後一般の女性の間に広まっていったようです。

 

このころには男女の間での衣服の交換・共有もあったようです。

ユニセックス仕様ですね。

 

ただ茶や鼠など地味な色合いと一口でいっても、当時の色合いの

多様さに驚かされます。

 

四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)という言葉が

あります。

 

江戸の人たちは茶や鼠色といった色のなかにも極めて微妙な色調の

違いを取り入れ、四十八茶百鼠と言われるほどの多様な色を生み出し

ました。

 

当時の染物職人さんは、色名を言うだけで見事に染め分けたそう

ですからみごとというほか言葉が見つかりません。

 

 

今景気回復を伝えるニュースも少しずつですが目につき始めています。

平成ファッションにも今後変化がみられるのでしょうか!?


織田信長、金平糖を食す お砂糖の話 [戦国グッズ]

東洋経済電子版に砂糖について興味深い記事がありました。

TPP交渉の進展で、砂糖が今後も課税維持の聖域として守られるのか

予断を許さない展開・・・との内容でしたが、記事の中で三井製糖

神戸工場の話がありました。

 

大量の精製前の砂糖が積まれた工場倉庫、クラクラするほどの甘い香り。

でもアリは寄ってこないのだそうです。

その正確な理由は分からないらしいのですが、あまりに大量の砂糖に

囲まれるとアリは体液を吸い取られ死んでしまうため、危険を感じて

アリが寄ってこないことが考えられるようです。

 

また前置き長くなりましたが、ちょっと砂糖の話です。

 

日本に砂糖を伝えたのは、唐僧の鑑真です。

745年に鑑真が唐の国から日本にやってきたときに、時の孝謙天皇に

砂糖を献上した記録があるそうです。

 

その後ごく少量の砂糖が国外から輸入されますが、当時は貴重品として

薬として使用されていました。

 

15世紀から16世紀のいわゆる大航海時代以降、南蛮人(ポルトガル人・

イスパニア人)により奢侈的な調味料として日本に持ち込まれます。

 

ポルトガル人は、砂糖や氷砂糖に卵・小麦粉を加えた当時としては非常

高価な砂糖菓子を日本にもたらしました。

金平糖、カラメル、ボーロ、カステラといった南蛮菓子です。

 

永禄12年(1569年)にポルトガルのイエズス会士ルイス・フロイスが

二条城に織田信長を訪問した際の献上品の中に、あの有名なビロード

帽子や鏡などと並んでコンフェイトスがありました。

金平糖です。

 

信長は金平糖を食した最初の日本人になります。

 

また一方で、フロイスが持参した目覚まし時計をいたく気に入り、

喜んだ信長が彼に美濃産干し柿を与えたとの記録もあります。

信長ほどの権力者ですら、当時甘味は天然の果物から

得ていたようです。

 

宮崎正勝著「知っておきたい食の日本史」によれば、日本国内で砂糖

栽培が普及するのは徳川吉宗が1727年に琉球からサトウキビの苗を

取り寄せ、これを浜御殿などで栽培させた以降のことのそうです。

 

1729年には平賀源内が大阪の砂糖問屋に日本で最初の純白の製糖

である三盆白(さんぼんじろ)を作らせています。

 

砂糖の普及は和菓子の多様化に大きく貢献しますが、この和菓子の消費

大きく貢献したのは江戸大奥の女性たちであったようです。

 

文化・文政期(18041829年)頃の大奥での砂糖消費量は一日当たり

600kgに達したと言われています(大奥には600~1000人の女性がいた)

 

大奥での砂糖の大量消費は、幕府財政圧迫の一因になったとも言われ

時の財政担当者を悩ましています。

 

NHK篤姫で松田翔太さんが演じた徳川家茂と

奥様の和宮(堀北真希さん)はともに大の甘党として知られています。

 

芝増上寺から発掘された家茂公の遺骨調査から、家茂公は32本の歯

のうち実に30本までが虫歯でした。

 

和宮様も虫歯に悩まされていたようです。

 

当時の江戸庶民の平均的な虫歯本数は4本から5本と言われています

ので、家茂公の虫歯本数は際立ちます。

 

もちろん砂糖が直接的な原因になったというよりも、将軍家の方々の

普段の食生活などが虫歯に影響していると思われます。

 

彼らは平常の食事において庶民のように固くごつごつした食べ物を

摂りませんので、口腔内の歯垢除去が不足しており、虫歯に・・・

 

話がとんでしまいそうなのでここで終了させていただきます。

 

お付き合い下さいまして有難うございます!

 

 信長マグブログ.JPG

侍気分 マグカップ


江戸の美人マニュアル [幕末 江戸]

*戦国グッズ・幕末グッズの侍気分は年初(11日、2日)鎌倉

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 お歯黒.jpg

 

もし女性が結婚指輪をしていなければ、外観から彼女が未婚か既婚か

判断することはできません。

女性の雰囲気から鋭く判断される方もいるでしょうが、普通はわかり

ません。

 

江戸時代であれば、判断は容易です。

未婚女性は自然のまま白歯でしたが、既婚女性であればお歯黒を

使って歯を黒く染めていました。

多くの地域では既婚女性の証として眉もそり落としていました。

 

お歯黒は、酢酸に鉄を溶かしたものにタンニンを含んだ粉をといて

つくられる文字通り黒い非水溶液で、かなり強烈な刺激臭がします。

 

このお歯黒は古墳時代から特に上流の階級で習慣化されていたようで、

戦国武将が合戦前の死に化粧としてお歯黒を施していた

記録もあります。

 

江戸時代には、お歯黒の黒色が「何物にも染まらぬ色」であること

から、既婚女性の貞節の証として、庶民にもその習慣が広まります。

 

行灯の本当に仄かな光明の中で、お歯黒は女性を奥ゆかしく美しく

みせるという見方があるようですが、やはり現代の感覚からはちょっと

不気味な感じがします。

 

江戸の美人、現代とちょっと違いましょうか?

 

ちょっと前置き長くなりましたが、以前面白いテレビ番組を見ました

のでご紹介します。

BS番組の「江戸のすすめ」です。

 

江戸時代と一口に言っても、美人の尺度は年代によって

変わってきます。

 

元禄(16881704)の時代、ふっくら系が好まれます。

顔は丸顔、ちょっと豊かな腰つきが人気です。

 

明和(17641772)の時代、ほっそり系が憧れです。

小顔で柳腰がグッドです。

痩せたい願望でお酢を飲むなどのダイエット法が喧伝されます。

 

天保(18301844)の時代、何といってもセクシー系。

あごがとがった逆三角形の顔形、艶めかしさがポイントです。

 

ただいつの時も、一番の決め手は白い肌です。

 

これは日本に限らず、タイなどほかのアジア諸国でもそうですが、

高貴な人は色白であるとの共通認識があったためでしょう。

お屋敷からは外に出ず、太陽のもとで働くことのないセレブリティ

への憧れが色白願望に結びつきます。

 

番組では当時の女性が自家製の美白美容液を作る姿を

紹介していました。

イバラという白い花を蒸し、その水蒸液を顔に塗り、美白を祈ります。

 

かなり必死です。

 

「都風俗化粧伝」という1813年に初版が刊行されてから、関東大震災

で版が焼失されるまで長い年月にわたって女子の人気を得てきた

美容マニュアル本があります。

 

前書きには、残念ながらあまりさえていないルックスでも、

この本を読んでちゃんと実践すれば、貴女も素敵な女性に

なれるとあります。

 

「厚めの唇を薄くみせる化粧法」「低い鼻を高くみせる化粧」

「少女の時の肌を取り戻す」・・・などなど今でもお馴染みの

項目が並びます。

 

現代と変わりません。

 

番組に出演されていたポーラ化粧品の方によれば、現代の化粧法は

すでに江戸期には確立されていて、違いは使用する材料

だけだそうです。

 

ちょっと意外だったのは、当時は大きな瞳はあまり好まれて

いなかったことです。

同書指導によれば、「大きな瞳が嫌で、無理に目を細めれば目つき

が悪くなる。

立っているときは1.8メートル先を、座っているときは90センチ先を

見つめなさい。

自然と目が細くなりますよ」とのことでした。

 

「容顔美艶考」という女子マニュアル本も紹介されていました。

こちらは女子のとるべき振る舞いについても言及しています。

 

「お芝居を桟敷席で観劇するときは、前に乗り出さないように気を

付けなさい。下の席から貴女の鼻の穴が見えてしまいますよ・・・」

 

こんな色っぽいご指導もあります。

 

新婚初夜の心得です。

 

「耳の中まで念入りに化粧しなさい。化粧は少し厚めが良いでしょう」

 

何故か?

 

「初夜の時、貴女は恥ずかしくて、顔を横に向けることでしょう。

(旦那さんから貴女の耳が良く見えますから)耳の化粧は念入りに

しなさい。

きっと貴女の顔は上気し赤くなりますから、化粧は厚めが良いのです」

 

かなり念入りなご指導でした。


6度の結婚をくりかえした伝二郎さん [幕末 江戸]

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農民.jpg

 

信濃国湯舟沢村(現岐阜県中津川市)に一組の夫婦がいました。

夫の八郎は戸主の伝七の弟で初婚。

妻なべは他村の生まれだが、父の死去で母とともに湯舟沢村に

戻ってきた。

なべもまた初婚でありました。

二人が結婚したのは1745年。

41年の歳月をともに過ごした後、1785年夫の伝七の死によって

二人の結婚生活は終わりました。

 

なべは21歳の時に伝七のもとに嫁ぎ、42歳に至るまでに7人の子を

生みました。

そのうち3人の女の子は早逝しましたが、残る4人の子供たちは無事に

成人を迎え、2人の女子は隣村に嫁ぎ、2人の男子は湯舟沢村で伴侶を

得ました。

 

同じく湯舟沢村に生まれた伝二郎は八郎・なべ夫婦とは対照的な人生

送ります。

 

伝二郎は1739年、21歳で初めて妻を迎えます。

相手は同じ村のしわという名の15歳の少女。

翌年しわと離縁。

しわは実家に戻り、翌年村内のまた別の家へ17歳で嫁ぎます。

伝二郎は離婚2年後の1742年に隣村から19歳の妻を迎え入れますが、

この結婚も短期間で終わります。

与兵衛で名前を変えた伝二郎は、1751年に3回目の結婚をします。

村内のたけ、年齢18歳。

二人の間には与藤次と名付けた男の子が生まれますが、1757年に

二人は離婚。

たけは与藤次を伝二郎の家に残して実家に帰ったのちに、25歳で

隣村に嫁ぎます。

(省略します)

伝二郎の6度目、最後の結婚は1767年伝二郎49歳の時でした。

結婚の翌年にはあきという名の女の子が生まれます。

この最後の結婚はなんと15年続き、1782年伝二郎の死去で終了します。

 

この1組の夫婦と一人の男は、鬼頭宏氏の「人口から読む日本の歴史」

という著書に登場します。

鬼頭氏は歴史人口学という学問分野の高名な先生だそうです。

歴史人口学とは同著によれば、「過去の人々が何歳で結婚し、

何人の子を生み育て、どこからどこへ移動したというような、

人々がその一生のうちに経験するあらゆる人口学的行動が研究対象

となる」学問です。

 

江戸時代の人口史気研究にとって宗門人別改帳は貴重な情報をもたら

情報源で、八郎・なべの夫婦、伝二郎のこともこの宗門人別改帳に

記されています。

宗門人別改帳は戸口調査としての人別帳と信仰の取り締まりを目的

とした宗門帳の重合によって生み出されたものです。

 

同著ではこの宗門人別改帳をデータベースとして江戸期庶民の人生を

解き明かしていきます。

 

非常に興味深い本です。

 

名もない庶民の姿が浮かび上がってくるようです。

 

伝二郎さんは、ちょっと極端かもしれませんが、江戸期の離婚率は

現代より高いというのが定説のようです。

 

離婚率の高さは庶民だけではなく武士も同様です。

磯田通史氏著「江戸の備忘録」によれば、正確な記録の残る愛媛

宇和島藩士32人について調べると、なんと4割が離婚経験者。

 

意外にも結婚は一生ものという観念が定着するのは

明治後期以降だそうです。

統計のある国の中では、明治半ばまでの日本は、世界最高レベルの

離婚大国だったそうですよ。

 

八郎さん・なべさんご夫婦は3人の子を幼く亡くしています。

 

江戸時代の平均寿命は短くおおよそ38歳程度です。

もちろんこれは、乳幼児の死亡率の高さが影響しています。

高い乳幼児の死亡率をカバーし人口が維持されるには、高い出生率

が必要となります。

江戸時代、4人から5人の子を産まないと人口を維持できなかった

との研究もあります。

20歳ごろに結婚し、50歳まで結婚を継続した夫婦は普通少なくとも

5人から6人の子供を作ったそうです。

 

また当時は男より女の平均余命が短かった。

出産は女性にとって大きなリスクとなっていました。

 

 

湯舟沢村の八郎さん・なべさんご夫婦、伝二郎さんとも、

ほんの数ページのお付き合いでしたが、とても印象に残りました。

 

 

 

 

 


戦国 合戦の死傷者数? [戦国]

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戦国ドラマは合戦シーンが見どころ。

大河ドラマも合戦シーン放映時には視聴率がアップするそうです。

 

数万の軍勢が入り乱れての乱戦、討死するものの数は数百、数千・・・

川中島の戦いや長篠合戦などでは、敵味方数万の軍勢が投入され、

おびただしい死傷数がでた。

 

どうも‘人数’が多すぎるような気が・・・

 

「戦国大名の領国はぶどうの房のようなもの」

「君(くん)は舟、臣は水」

 

上の二つは戦国関連の本で記述されることが多い戦国大名について

のたとえです。

「一粒一粒のぶどうの実があり、それが一房のぶどうをつくっている」

「家臣(水)があるから大名(君)は舟となれる」

 

戦国の世(信長、秀吉の統一政権前)の大名の家臣たちは、大名の配下

ではあっても、実態はゆるやかに組織された同盟者のニュアンスが強い

ようです。

 

謙信.jpg

 

 

あの越後の虎、上杉謙信ですら領国内の家臣の統制に大いに苦心して

います。

 

多くの場合彼らが合戦に参戦する理由も、それが利を得る機会である

ことが前提条件となります。

つまり大名が「者ども、突撃!」と叫んでも、配下の者どもは時には

その命令に従わず、戦況不利ならば、戦場から簡単に離脱して

しまいます。

 

一方、大名にとっても家臣の死傷は大きな痛手です。

 

また単純に戦国時代の人口数の観点からも、合戦の参加人数、死傷者数

が多すぎる気がします。

 

16世紀末ごろの、日本人の正確な人口数はもちろんわかりませんが、

おおよそ1,200万人から1,300万人と言われています。

(ちなみに江戸時代前期の17世紀に日本人の人口は急増、18世紀初頭

には3,000万人を超えています)

 

戦国の軍勢は、兵農未分離の時代ですから人口当たりの合戦への参戦率

は高かったかもしれません。

それでもやはり現在の約10分の1の人口数ですから。

 

どうも‘人数’が多すぎるような気が・・・


侍の威厳 [幕末 江戸]

 

昔読んだ本に明治のある老婆の話がありました。

 

その老婆は江戸幕末期の侍の姿を回想して、

「そりゃ、侍は全然わしらと違って雨が降っても走らないし、辻角を

曲がるときも、前を見据えて直角に曲がる」というようなこと話して

います。

 

侍は侍としての威厳を保たねばならない。

 

それが侍をつくる。

 

 侍政府.jpg

 

一方で、こんな話も思い出します。

 

幕末維新が終わり、日本は新政府の体制作りに懸命でした。

中央、地方で行政組織を‘突貫工事’で整えねばなりません。

人材がいない!

 

そのため、さして維新の時にも活躍のなかった無名の人物でも

行政の要職に登用されました。

中には人物風采に疑問符が付く人物もおりました。

 

新政府の今でいうところの人事担当者が、確か大久保利通

(すいません記憶定かでありません、いずれにせよ政府の高官です)

に対し「候補者Aはどうにも役職に相応しい威厳がない」

と困り顔で相談。

これに答えて大久保は「そのものを体裁の良い馬車にでも乗せて、

東京の街中を一日回らせれば、自然と威厳などつくものだ」

と答えています。

 

以上、威厳についてとりとめのない話をしてしまいました。


まことの武士 [幕末 江戸]

 

「八重の桜」

綾野剛さん演じる病身の松平容保公が、

「武士の忠義を貫き通したかわりに、わしは会津を死地に追いやった」

との心情を打ち明けます。

これに答えて、玉山鉄二さん演じる山川浩は、

「あの時徳川を見捨てれば、‘まことの武士’などいなかったことに

なります。」と訴える。

 

ここ最近私が読んでいる江戸中期の本にも多くの武士が登場します。

戦国の世は遠くすぎ、武士の集団は行政機構となり、腰に差した刀も

武士身分を証明するバッジのようなものです。

彼らは侍のイメージとは随分と異なり、現代の会社員とその生態に

大きな差がないようです。

 

職場での人間関係、出世、単身での江戸赴任・・・

いくさの無い泰平の時代にマッチした振る舞いや人間関係が求められ

ます。

 

しかし武士はあくまでもその本領は戦士であり、また統治者です。

武士としての面目を保たねばなりません。

武士としての規範の順守が求められました。

 

長岡藩家老の河井継之助を描いた司馬遼太郎の「峠」。

そのあとがきにこう記述されています。

 

「ひとはどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸の

武士道倫理であろう。ひとはどう思考し行動すれば公益のために

なるかということを考えるのが江戸期の儒教である。この二つが

幕末人をつくりだしている」

 

「幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、

多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術

とまでいえるように思える」

 

中でも会津藩は江戸期においてもっとも士道の気風が徹底された

藩の一つでした。

 

西島秀俊さん演じる山本覚馬は言います。

「薩長にも義はあった」

 

山本覚馬.jpg

山本覚馬

 

幕末期、

薩長、幕軍、会津・・・

掲げる義は異なっても、侍たちが多くのドラマを生み出します。

 

武士が姿を消して140余年。

 

今でも日本代表チーム、その呼び名は「侍ジャパン」ですね。


買って買って買いまくる 東福門院和子 [幕末 江戸]

その高貴な女性は72歳で亡くなる前の僅か半年もの間に、計340

もの衣装を注文している。

その合計代金は現在の価格でおよそ15,000万円。

 

72歳の老婆が半年間に雁金屋という御用呉服店に作らせた衣装

だから、ただただ驚くほかない。それはまさに狂気としかいいようが

ない。

大石慎三郎「江戸時代」にある高貴な女性の「狂気としかいいよう

がない」買い物の記述があります。

 

彼女は徳川2代将軍秀忠と正妻お江与(大河ドラマになった江姫です)

の末娘、東福門院和子です。

 

1615年に大阪城落城し豊臣氏が滅ぶと、「武家諸法度」、

「諸宗緒本山諸法度」とならんで「禁中公家諸法度」が徳川幕府より

出されます。

この公家諸法度により朝廷・公家は幕府の統制下に組み入れられます。

 

天下を手中に収めた徳川家は、天皇の外戚となってその権威を確たる

ものとするため、2代将軍秀忠の末娘和子を後陽成天皇の第三皇子三宮

(後水尾天皇)のもとに送り込もうと画策。

1620年和子入内。

後水尾25歳、和子14歳の時でした。

日本で最も豪華絢爛な婚儀であったそうです。

 

外戚の地位を通じて朝廷支配をより直接的なものとする幕府と強圧的な

幕府の圧迫を快く思わない後水尾天皇。

大石慎三郎「江戸時代」には「後水尾天皇が徳川氏の力によって事ごと

にその意思を踏みにじられ幸福とはいえなかったと同様、政略に利用

された和子の場合も後水尾同様不幸であったろう」と記述されている。

 

1629年、第二皇女興子内親王(明正天皇*称徳天皇以来860年ぶりの

女帝の誕生)に皇位を譲位し、後水尾天皇が退位。

念願の外戚の地位を得た徳川氏にとって、もはや後水尾天皇と和子は

御用済みの存在となりました。

後水尾天皇も徳川への遠慮なく、他の数多くの女性に関心を移し、結果

40名近い子女が誕生したそうです。

(かって和子の入内が決まっていながら、他の局を寵愛し皇女を

生ませた後水尾天皇を幕府は厳しく糾弾し、結果後水尾天皇の側近の

公家数名が幕府によって処分されています。)

 

後水尾天皇の退位に伴い、23歳の若さでいわば隠居の身となった和子。

東福門院と号した和子は亡くなるまでの残り半世紀をある情熱に

捧げます。

 

「衣装狂い、狂気のような着物の新調にあけくれた一生であった」

 

夫と生家からの‘関心’をなくした不幸な、この高貴な女性の

衣装狂いは和服文化の隆盛と日本の芸術を代表する天才尾形光琳の誕生

に大きな貢献を果たしている。

 

尾形光琳.jpg

 

尾形光琳は1658年、京都の呉服商「雁金屋」の当主・尾形宗謙の次男

として生まれます。

 

雁金屋はお江与姉妹、徳川秀忠、高台院など江戸初めの

超セレブリティーを顧客とし、中でも最大の顧客東福門院の大量発注に

よって繁栄を極めた呉服屋(高級オートクチュール店)さんです。

 

雁金屋は最大顧客の東福門院の死去、その後の大名貸しなどの経営失敗

により没落しますが、尾形光琳が生まれ青年期を過ごした時期はまさに

絶頂期にありました。

 

雁金屋は超セレブリティー顧客たちの注文に答え、着物の制作技術を

磨き上げ、着物文化の花が開きます。

 

宮中に小袖を着用する習慣を持ち込んだと言われる東福門院はまさに

その後さらに完成度を高めていく着物文化の最大の貢献者だったのです。

 

狂気ともいえる衣装狂いが一つの文化を育てる。

 

現代であれば、

有り様はだいぶ異なりますが、

コミケも世界に誇る日本のサブカルチャー、萌え可愛い文化を育てる

最大の貢献イベントになってるかもしれませんね。

 

なにかと批判も多いコミケですが、あの狂気ともいえるイベントは

確実に何かを生んでいると思われます。

 

戦国・幕末グッズ 侍気分HP

宜しければご覧ください http://samuraikibun.com/

 

 


江戸のお仕事あれこれ [幕末 江戸]

時代劇に登場する江戸のご商売をちょっとご紹介。

 

髭の町医者:

 

江戸時代には医師の資格制度は無かったですので、誰もがなれる

職業でした。

ただ当然ながら、誰もが町医者になれても、誰もが成功できる訳では

ありません。

有名な私塾で学ぶ、高名な医者に医学を学んだといった経歴が、

患者の信用を得るためにも大事でした。

医者は江戸期にあって、封建的身分制度を乗り越え立身出世できる

職業で、町医者でも腕前・評判次第では将軍さまの奥医師になる

チャンスがあったようです。

 

イケメン飛脚:

 

時代劇のワンシーンでたびたび登場しますね。

飛脚には幕府や各藩からの仕事を請け負う公用の飛脚とその他に商人

など一般人向けの飛脚(町飛脚)がいました。

当時江戸の旅人は江戸京都間の492㎞を2週間前後で歩いたそう

ですが、飛脚の超特急サービスを利用すれば、なんと4日で手紙や荷物

を送り届ける事が出来たそうです。

宿場町で待機する飛脚達がリレー方式で荷物をバトンタッチ!

 

飛脚.png

 

裕福な呉服屋:

 

「○○屋、オヌシモ悪ダノー!」

江戸に大店を構えた呉服屋は三井越後屋、下村大丸屋、大村白木屋が

有名。

呉服販売はもともとお武家さん相手の掛売り(クレジット取引)、訪問

販売が普通であったが、三井越後屋がこの掛け値(売り掛けのリスク分

を価格に上乗せ)での販売方法を改め、「現金掛け値なし」町人相手の

現金商売を店頭で始めてこれが大ヒット。

以後(1690年ごろ~)呉服屋は現金商売が普通になったそうです。

三井越後屋は今の三越、下村大丸屋は大丸、大村白木屋は東急百貨店

として存続しています。

 

他に時代劇には目立った登場はしませんが、

リサイクル都市江戸の面目躍如たるお仕事を二つご紹介。

 

肥(こえ)取り:

 

下肥は化学肥料が無い当時、農民にとっては貴重な必需品でした。

彼らは下肥の確保のため江戸近郊から肥桶を担いで汲み取りに来ました。

長屋住人の糞は家主さんの所得と決まっていたそうで、大家さんに

とって貴重な収入源(大家さんは近郊の農民と契約、長屋の住民一人分

の糞をいくらで農民に売るか取り決めていました)だったそうです。

 

川柳を一つ。

 

「肥取りへ しり(尻)が増えたと 大家言い」

 

蝋燭の流れ買い:

 

溶けて流れた蝋燭を買い集める商売です。

蝋燭は当時かなり高価で、普通の庶民の家で蝋燭を使用することは

あまりなかったそうです。

蝋燭を使うのは料亭や遊郭あるいは武家屋敷ぐらいで、庶民は主に行灯

(あんどん)を使っていたようです。

行灯は小さなお皿に油と灯心を入れて火を灯す簡易な照明道具です。

美女が化け猫となって、行灯の油をペロリペロリの場面にも使われますね。

 

以上、江戸のお仕事ちょっとご案内でした。


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