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侍のお正月 [幕末 江戸]

侍気分は明日、明後日 鎌倉で臨時出店します。

詳しくは侍気分HPをご覧ください。

 

千代田の正月.png 

 

江戸期、武家屋敷では暮れの28日の早朝に門飾りにとりかかった

そうです。

町人の気が早い輩は12月になるのを待ちかねて門松をたてたそうです。

 

門松は元来、年神様を家に迎え入れるための依り代で、江戸期の門松は

松の先を切らないで、地面からそのまま随分の高さのものが飾られて

いたようです。

中でも吉原遊郭に飾られた門松は立派で、空をつくような大きなものが

飾られたようです。

 

現在では、家の門に葉の無い竹を立て、根元に松を添えるのが普通ですね。

竹の先端部分は槍の切っ先のように斜めに鋭く切ってあるものが多いです。

文字通り竹槍のような塩梅です。

 

この竹の先端を鋭く斜めに切ったのは、徳川家康が武田信玄に大敗を

喫した

三方ヶ原の戦い(元亀31222日)のときの故事に由来する

そうです。

 

戦に大敗し、家康は命からがら浜松城に逃げ帰ります。

元亀4年元旦、武田方より家康のもとに元旦の祝いの句が届けられます。

 

句は「松枯れて 竹たぐいなきあしたかな」。

松は松平(徳川の別称)、竹は武田。

徳川は衰亡し、武田の将来はいよいよ盛んであるとの意味です。

 

読み上げられた句に消沈する家康家臣の中にあって、家康四天王のひとり

である酒井忠次が「武田め、何をうたうか!正しき句はこうだ!」と叫び、

一句読み上げます。

 

「松枯れで 武田首なきあしたかな」

 

徳川方の意気はこの句のおかげでおおいにあがったそうです。

やがて武田を滅ぼした徳川は、竹の上端を(首を刎ねたように)鋭く

切った門松を、開運のしるしとして飾ったそうです。

おめでたいというより、むしろ怖い由来ですね。

 

磯田通史「江戸の忘備録」に侍の正月について面白い話がありました

のでご紹介します。

 

同書で今の年賀状の習慣は、江戸の侍の風習に根ざしていると推察

されています。

 

江戸期の侍は年賀状を書く必要はありませんでした。

侍は区割りされた一角に住んでいたため、正月になれば年始回り

と称して手に名刺を持って同僚の屋敷を20軒程度挨拶して回った

そうです。

名前の右肩部分に「謹賀新年」と書き込んだ名刺をお互い同僚の

留守宅(主人は挨拶回りで不在)に置いて回るそうです。

 

商人などは名刺代わりの手ぬぐいや扇子を置いて回ったらしい。

明治の世となり、侍たちもそれぞればらばらになると、互いの家も

離れ、正月の名刺配りもできなくなったため、賀詞を添えた名刺

を封筒に入れて送りつける。

 

明治6年に郵便はがきが誕生すると、はがきを名刺に見立て郵送

し始めます。

 

つまり年賀はがきのもとは年賀名刺であったとの推察でした。

 

江戸の後期にはすでに侍の間でもお年玉の習慣もあったようです。

お年玉といっても大人のお年玉です。

 

年賀の挨拶を受ける家では、年賀にきたお侍さんのお供の人たちに

お金を包んでわたしたそうです。

結構な出費だったでしょう。

 

侍は通常時代劇にあるように1人で外出しません。

年賀の挨拶も数名のお供を連れていきます。

 

例えば江戸町奉行所の与力(必殺シリーズ中村主水の上司である

中村様のポジション)が元日に奉行のところに年始の挨拶に行くときも、

大小の刀を差した若党1名の他に御用箱持ち1名、草履取り1名、

槍持ち1名、挟箱持ち1名など合わせて4,5名のお供を連れて

いきます。

 

 

お読み頂きまして有難うございます。

皆様、良い新年をお迎えください。


黒船がやって来た!! [幕末グッズ]

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鎌倉にて臨時出店致します。詳しくは侍気分HPをご覧ください。

 

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侍気分 黒船ニットキャップ

 

 

 

黒船が来た!

 

ペリー提督が率いる4隻の黒船(蒸気船)が浦賀沖に現れます。

時は嘉永6年6月3日(1853年7月8日)。

 

「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も眠れず」

 

上喜撰(じょうきせん)は宇治高級茶のブランド名、

黒船がたった四隻現れただけで、徳川幕府が慌てふためく姿を

うたった狂歌です。

 

黒船来航は徳川の世に強烈な危機意識をもたらしました。

 

急ぎ西欧諸国に追いつくための近代化をすすめ、危機を乗り切るべし!

危機をもたらすものは、断じてこの国の領土に上陸させてはならない!

 

開国!と攘夷!に国論が二分され、攘夷はやがて討幕に向かいます。

この年より僅か15年後に幕府は崩壊します。

黒船の来航は幕末維新胎動のまさにきっかけとなった事件でした。

 

「幕末風塵録」という本に、この黒船来航について面白い話が紹介

されています。

 

4隻のペリー艦隊は翌年の再航を約束して、江戸湾を去ります。

対応に苦慮した幕府は、広く全国の大名、幕府役人、諸藩の藩士、

加えて一般の町民に対しても「

良い案があれば忌憚なく意見を建言せよ」と布告します。

大名や役人たちの意見は「なるべく穏便に」というものが大勢を

占めますが、江戸町民の意見は威勢のいいものが多い。

 

吉原遊女屋の主人 藤吉 の意見

「夜中、黒船の下の海底に潜水夫を使って鉄の棒をたてる。

干潮になれば船の吃水が下がる。そうすれば船底に穴が開いて沈没

するに違いない。

この案が成功したら、褒美として吉原遊郭の繁盛のため山谷堀も船宿

経営の免許を下さい。」

 

材木問屋 中村屋源八 の意見

「江戸湾入り口の水底に丸太杭を打ち込み、水柵を2重3重に設けて、

柵の内側に石を詰め込む。

水柵の内通りに筏を組んで、その中に味方の船が通る水門を

開けておく。

黒船が来たら水門を閉めて通航不可能にする。

この意見が採用されましたら、水柵には私どもの木材をご使用下さい」

 

江戸町民の抜け目なさが発揮されています。

 

またペリーが下田に再航した時には、こんな話が残っています。

 

村人たちの‘ある振る舞い’に、ほとほと困惑したペリー提督は

幕府役人に抗議します。

その振る舞いとは、村人が面白半分に水兵さんに春本(エロ本)を

与えたり、ボートに投げ込んでくるというものでした。

村人たちのにやついた顔が目に浮かびますが、

あまり上品とはいえない お・も・て・な・し です。

 

 

外国人にたいする認識はごく少数の開明的な人たちを除けば、

武士もまた庶民と同程度のものでした。

 

ペリー率いる黒船来航から10年後の文久3年(1863年)に

薩英戦争が勃発します。

薩英戦争とは、前年におきた生麦事件(島津久光の行列を横切った

英国人4名を薩摩藩士が殺傷)の賠償金請求のため鹿児島湾に入港した

英国艦隊と薩摩藩のあいだでおこなわれた戦いです。

 

英国軍艦への斬り込み決死隊を募った薩摩藩庁は、決死隊隊員たちに

このような訓示を与えています。

「諸君が今より戦う異人は足にかかとが無い。だから靴にかかとを付け

歩いているのである。異人と戦い危機となれば、靴を奪ってしまえ!

靴を失えば、異人どもは転倒して歩けなくなる」

 

 

黒船来航よりおよそ170年後の2020年、東京オリンピック

が開催されます。

江戸のホテルに泊まれば [幕末 江戸]

 

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イザベラ・バードという英国の女性旅行家がいました。

彼女は1878年に日本の東北地方を旅し、「日本奥地紀行」という本を

著しました。

恐らく東北を旅した最初の西洋人女性でしょう。

 

彼女は旅の先々で人々の好奇の目を集めます。

彼女が秋田の神宮寺村(現大仙市)に宿泊した時の様子について、

同著にこんな記述があります。

「神宮寺の宿屋に宿泊すると、夜中に人の気配がして目が覚めた。

およそ40人もの男女が部屋の障子を取り払い、私の寝姿を黙って

見入っていた」

当時の人々の好奇心は理解できるのですが、これは少し怖すぎます。

 

障子を外せば容易に宿泊者のプライバシーを覗きこめてしまう宿屋。

これは宿泊者にとって不安なことです。

 

ちょっと江戸の宿屋の話です。

バードが旅した明治10年の宿屋、江戸期のそれと変わらぬはずです。

 

江戸時代、一般の旅人が泊る宿屋は旅籠(はたご)と呼ばれます。

街道筋の宿場には本陣と称する宿屋がありましたが、こちらは大名や

公家など身分の高い人が利用するものです。

江戸も18世紀後半にもなれば、「伊勢参り」や「金毘羅参り」に

代表される「信仰の旅」から(あるいはこれを口実とした)、

「娯楽の旅」が盛んとなり、有名寺社の周辺や街道筋にも多くの旅籠

が並びます。

 

旅籠の多くは飯盛り女と称する娼婦をおいており、これをおかない

旅籠は平旅籠と区別されています。

他、宿泊の目的により宿屋の種類もいくつかありますが、一般的な

旅籠についてちょっと書きます。

 

相部屋はかなり普通にあったようです。

客で混雑すれば相部屋になり、全くの赤の他人と枕を並べて寝る

ことになります。

もっとも冒頭のバードさんの旅行記にもあるように、間仕切りに

ふすま・障子が利用され、壁がなかった旅籠ではプライバシーがない

という観点では相部屋でなくともあまり差がないのかもしれません。

となり部屋の声も筒抜けです。

 

当然ながら当時の旅人も特に相部屋になるときには、相宿の相手の

身なり、振る舞いを注意深く観察し用心を怠りません。

盗難も頻発していたらしいですから、用心が肝要です。

 

 

食事は晩飯と朝飯が提供され、頼めばお弁当も作ってくれます。

部屋食が一般的で、宿泊者が一堂に集まり食事をとるということは

なかったようです。

一部の料理宿(グルメ宿)を除けば、旅籠の料理はさほど大差なく

ごく普通であったようです。

 

 

元禄期には旅籠にお風呂がもうけられていたようですが、衛生上問題

のあったものも多かったようです。

沸かし湯にしてもどの程度の頻度で湯を沸かしていたかはなはだ疑問

で、小さな風呂桶に入れ替わりに宿泊者が入浴するのであまり衛生的

とは言えなかったようです。

 

 

寝具は敷布団一枚に掛布団が一枚。

寒ければもう一枚掛布団が提供されます。

この時代、シーツなどはなく、浴衣の提供も一般にはありません。

 

旅籠の寝具についていえば、ノミ・シラミが宿泊者を悩ませた記録が

多く残っています。

いったんお客がノミ・シラミを持ち込めば、有効な消毒薬のなかった

当時では根絶は困難だったのでしょう。

 

 

最後に気になる宿泊料金ですが、現在の価格でおおよそ45千円が

普通だったようです。

今のビジネスホテルの料金と比べると、同程度か幾分安めでしょうか。
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