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「光りあるところに影がある」超人的忍者は存在したのか? [戦国]

 

 白土三平作 サスケ.png

 白木三平作 サスケ

 

漆黒の闇を疾風の如く駆け抜け、手裏剣を打ち、高い塀も難なく

飛び越える。

その姿を追えば、煙の如く姿を消す。

 

映画アニメの世界で活躍する超人的な忍者。

はたして実在したのでしょうか?

 

以下順に考えてみました。

 

*戦国の世 時代は忍者を必要とした

 

戦国時代、武将たちが繰り広げた合戦は戦う前にすでに勝負が

決していたことが多かったようです。

 

戦国武将たちは戦いにあたって、敵側に内通者を作る(内通工作)、

意図的な噂を流し敵方将兵を仲間割れさせる(離間策)といった

謀略を仕掛ける。

事前の謀略戦が合戦の勝敗を決定づけたと言えるようです。

 

またいざ合戦となれば、闇夜に紛れて敵方を奇襲するといったゲリラ戦

や、敵陣営に放火し後方を混乱させることも有効な手段でした。

 

こうした謀略戦やゲリラ戦には当然その実行者が必要となります。

高度な専門能力を備えた実行者が必要となるのです。

 

例えば、

戦国武将の領国は現代と比べずっと閉鎖的な社会でしたから、敵方に

怪しまれずに敵国情勢を掴み、何らかのネットワークを使って収集した

情報を味方に伝達するといった 謀略戦には欠くこのできない諜報活動

の実行も決して容易ではなかったはずです。

 

*忍者の持つ技術 化学知識と心理術

 

磯田道史氏著「歴史の楽しみ方」は忍者を‘化学者としての忍者’

として取り上げており興味深いです。

古文書から毒薬や生物兵器に通じた忍者の姿が浮かび上がる。

戦国、徳川期初期に多く事例が残る‘邪魔者’の不審な死の真相には

毒物を自在に扱う忍者の関与があったかもしれない。

 

 

‘飛び加藤’の異名を持つ戦国の忍者、加藤段蔵にまつわる逸話。

越後の上杉謙信に仕官先を求めた加藤段蔵は春日山城の城下町で派手

パフォーマンスをする。

大木に繋がれた一匹の大きな黒牛を指さした段蔵は、大勢の群集に

向かい大声で「この大牛を俺が飲み込んでみせよう」と言い放った。

段蔵は大きな黒い布を自分の頭と大牛の頭にかぶせた。

かぶせられた黒い布の中で、大牛の頭が確かに飲み込まれ、

やがて大牛の腹が、足が、そして最後には尻尾までが飲み込まれ、

大牛の姿が消えた。

 

もう一人、豊臣秀吉を恐怖させた果心居士の話。

果心居士は秀吉に請われ妖術を披露する。

側近を遠ざけてひとり部屋に残る秀吉。

秀吉は果心居士の使う妖術を待った。

やがて部屋が闇に包まれ、1人の若い女性が現れる。

むかし戦場で秀吉が犯し、殺した女性だった。

決して忘れることの出来ない過去の自分の過ち。

「もうよい!やめんか!」、恐怖に駆られ秀吉が叫ぶ。

秀吉の叫び声に駆け付けた側近に向かい、秀吉は果心居士の

磔刑を命じる。

磔柱に縛られた果心居士は、処刑の寸前に一匹のネズミに姿を変え、

消え去った。

 

人間心理に通じ、思い込みや錯覚を巧みに利用した妖術を操る忍者。

ハンカチーフから飛び出す鳩、剣で串刺しにされながら傷ひとつ

ない美女、幾重にも鉄鎖が巻かれた木箱からの脱出などスペクタクル

な現代のマジックショーにも決して劣らない忍者の妖術。

忍者の使う妖術を目撃した当時の人々の驚きはいかほどのものか。

人々の驚きは逸話となり語り伝えられます。

逸話の中に真実はあったと考えたい。

 

*忍者の身体能力

 

北斗神拳の伝承者ケンシロウ氏は「普通、人間は潜在能力の30%のみ

使えるが、北斗神拳は転龍呼吸法により残り70%の能力も発揮できる」

と語る。

 

MIZUNO社のWEBマガジンに「心理的限界を超える火事場の

馬鹿力の秘密」という興味深いコラムを見つけました。

それによれば、人間の脳は筋肉や骨の損傷を防ぐため、本来使える力

を抑制してしまう安全装置がかけられているらしいです。

このため通常、人間はこの安全装置により自分の意識のなかで限界と

思っているところまでしか力を発揮できない。これを心理的限界と

呼ぶそうです。

しかしこの安全装置が外れたとき、心理的限界を超えて筋肉が本来

持っている力(生理的限界と呼ぶそうです)を人間は使うことができる。

生理的限界のおよそ70%が心理的限界となるようです。

 

さすがに北斗神拳と比べると少し迫力不足になりますが、忍者はこの

心理的限界を超えた能力を発揮できたのではないか。

 

この世に生を受けた時から忍者になることを宿命づけられている者たち。

幼少より閉ざされた生活環境のなか、ただひたすら技を磨く彼ら。

常人が持つこの‘臆病な安全装置’なぞやすやすと

忍者は超えたに違いない。

 

 

戦国の世の中、忍者が縦横に働く場が用意されていた。

彼らは化学的技術を持ち、人間心理に通じ、巧みな妖術を操る。

その身体能力は優に普通の人間の限界を超えた力を発揮した。

 

超人的な能力を持つ忍者たちは実在したと考えたい。

 

戦国武将たちが演じた華々しい国盗り物語の裏面に確かに彼らは存在した

のではないでしょうか。

 

 

「光あるところに影がある。まこと栄光の陰に数知れぬ忍者の姿があった。

サスケ、お前を斬る!」

忍者アニメの傑作「サスケ」オープニングより。

 

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江戸の旅行エージェント [幕末 江戸]

 

「最も往来が激しい東海道のような街道は、ヨーロッパのどんな

にぎやかな都会よりもさらににぎわっていることを読者の皆さんに

保証する。この国の人々が自ら好んで、あるいは必要に迫られて、

旅に出ることの頻繁さといったら、恐らくどの国の国民よりも勝って

いるだろう」

 

1690年に長崎蘭館の医員として来日したケンペルが「日本誌」の中で

記している。

 

江戸期、人々は続々と旅に出ます。

街道筋の宿泊施設の整備にともなって江戸中期から庶民の旅も活発に

なってきます。

旅人が日本国内を盛んに歩き回りはじめた背景には、

ある旅行エージェントの存在があったようです。

 

そのエージェントとは御師(おし)です。

 

(現在放映中の大河ドラマ「軍師 官兵衛」にも御師が登場します。

尾藤イサオさん演じる広峯神社の御師 伊吹善右衛門です。

竜雷太さん演じる黒田重隆が家伝の目薬を広峯神社の御師に託し、

御師がお札に添えて販売します。

眼病に効果てきめん?の黒田印の目薬は大ヒット商品となり、

黒田家発展の基盤をつくったと伝えられています。)

 

お伊勢参り.jpg

 お伊勢参り

 

御師は社寺の神官ですが、その信仰を広めるためにかなりの遠方まで

お札を配り祈祷をおこなって、信者を獲得し初穂を集めました。

 

御師はまた社寺への参詣の勧誘や参拝や宿泊の手配、案内も

おこないました。

御師は社寺の営業マンであり、添乗員でした。

 

御師の活躍もあり、遠く離れた地にある有名社寺への信仰集団(講)

江戸期には多く発展します。

有名な講には、伊勢講を筆頭に富士講、熊野講、大山講、金毘羅講や

日光講などがあります。

御師はそれぞれ講に所属する人(講員)の家をまわり、初穂を集め

たり参拝の勧誘をするわけです。

 

一生に一度は行きたいお伊勢参り。

 

お伊勢参りを案内してくれるのが神宮の御師(伊勢の場合はおしでは

なく‘おんし’と読むそうです)です。

 

御師は、参拝者の出迎えから道案内もしてくれますし、豪華な

宿泊施設贅沢な食事も提供してくれます。

帰りにはお土産まで頂戴し、まさに至れり尽くせりの扱いです。

 

講員はおよそひと月ほど(他所もゆっくり観光すればプラス5~10日)

の旅を終えてたくさんのお土産話を持って帰っていきます。

                                                                                                                     

「○○の国では○○に○○をかけて飯を食うんだよ、信じられね~」

「○○宿の○○って遊女は本当に情があって良かったな~」

「○○が凄いって評判だから見に行ったが、江戸の○○の勝ちだな」

 

本当に出来ることならまた行ってみたい旅ですが、

ちょっと無理な相談でしょう。

 

旅費が高額です。

旅は順番なのです。

 

旅費捻出のカギは講の相互扶助システムにあります。

講員は毎月少額のお金を積み立てます。

お金が貯まったところで厳正なくじを引き、くじに当たったものが

講員を代表してお参りに行けます。

すでにお参りに行ったものはくじを引けません。

次はお土産話を聞いて、目を輝かせる○○さんの番です。

 

 

遠方への旅へはそうそう行けなくとも、江戸の庶民はお弁当持参の

ワンデイトリップにはよく出かけたようです。

江戸は市街地の範囲が狭いため、歩いて行くことのできる風光明媚な

場所が多くあり、庶民は気楽な遊山を楽しみました。

日本橋から1時間かそこら歩けば郊外に出て、ちょっとしたピクニック

気分を味わえたでしょう。

旅ともなれば1日に30キロは歩く健脚ぶりを発揮する人々ですから、

朝ごはんを食べてから家を出て、郊外で遊山を楽しんでまだ明るい

うちに帰宅することはじゅうぶん可能だったわけですね。

 

 

*お読み頂き有難うございます。

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か弱い姫君? [戦国]

 

「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝事(かつこと)が本にて候事」

朝倉氏3代に仕えた猛将朝倉宗滴の残した家訓「朝倉宗滴話記」より。

 

犬とも、畜生とも罵るがよい。(どんな手段を取ろうとも)武者は

勝たねばならないのだ!

凄まじいまでの勝利への執念渦巻く戦国時代。

 

厳しい戦国の世にあって、自国の領地を守り、拡大していくために

政略結婚はごく普通におこなわれました。

あるいは結婚そのものが政略的でした。

 

初恋の人への思いを隠し、父の命ずるままに他国に嫁ぐ姫君。

悲しき運命に翻弄される薄幸の姫君。

 

大河ドラマでも涙を禁じ得ない場面となります。

 

しかし戦国の女性はそれほど‘やわ’ではなかったようです。

 

その美貌から戦国に咲いた花ともうたわれたお市の方が、兄である

織田信長の政略により浅井長政のもとに嫁いだのは

永禄七年(1564年)。

その3年後、信長は浅井氏と関係の深い越前の朝倉義景の討伐を企てる。

浅井長政は信長ではなく朝倉との同盟を選択。

信長は越前に侵攻、この時近江の浅井が信長軍の退路を断てば信長軍は

もはや袋の鼠となり壊滅する危機となった。

兄信長の危機を察したお市の方は信長に小豆の入った袋を急ぎ送った。

小豆袋はその両端を細縄で固く縛られていた。

小豆袋は信長が袋の鼠になるというお市の方が送った警告であった。

警告に気づいた信長は間一髪のところで危機を脱することができた。

 

 

美濃の斎藤道三の娘であり、信長の正室となった濃姫の話です。

信長に嫁いでほどなくして、濃姫は信長の奇妙な行動に気づいた。

信長が夜ごと寝床を抜け出してどこともなく出ていく。

不審に思った濃姫が信長に問いただすと、信長は「すでに数名の斎藤家

重臣がこちらに内通している。彼らは道三を殺し、狼煙をあげると

約束している。それで毎夜高台に登り狼煙があがるのを待っているのだ」

と打ち明けた。

信長の話を聞いた濃姫は密かに密書を父道三に送る。

「父上、数名の家臣が夫信長に内通、父の命を狙っています!」

密書を読んだ道三は激怒、密書にあった内通者を即座に殺してしまった。

しかしこれは斎藤家の弱体化を狙った信長の謀略であった。

 

この2つの逸話(事実であったか正確にはわかりませんが)は当時の

姫君の意外な逞しさを物語っています。

 

姫君たちは決してただ不幸な運命に弄ばれていただけではないようです。

 

彼女たちも欲望渦巻く戦国の世にあって、何よりも実家を守るため懸命

生きることを優先した。

 

‘タフ’な女たちです。

 

タフガールが相手となれば、男たちの接し方も現代とは

ちょっと違う?ようです。

戦国の時代から、江戸初期にかけては女性に対して総じて冷淡な態度を

取ることが武士の心得でした。

 

氏家幹人氏著「武士マニュアル」に戦国時代の高名な剣客、塚原卜伝

が詠んだ武士の心得100首を集めた「卜伝百首」が紹介されています。

 

その中に女性への接し方で守るべき3つの教えがあります。

 

*武士は女に染まぬ心もて これぞ誉れの教えなりける

*武士の稚児や女に戯れて 心おくれぬ事はあらじな

 

3つめがちょっと凄いです。

 

*武士の月代(さかやき)を剃る剃刀を かりにも女の手にも取らすな

 

 

他の文献でも「人の心は変わりやすく信じがたいが、とりわけ女には

心を許せない」「7人の子をなすほど長く連れ添った女でも心許すな」

などなど・・・警句が散見されます。

 

マッチョな武士社会が生んだ女性不信でしょうか、

あるいはタフな女性たちに対する武士の自衛策だったのでしょうか?

 

 お市の方.jpg

 お市の方肖像画

 

お読みいただき有難うございます。

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大岡越前と江戸のお白洲「逮捕されるとどうなるか」 [幕末 江戸]

 

「その方重々不届きにつき市中引き回しの上、打ち首獄門に処する!」

厳しい表情を浮かべ判決を申し渡す大岡越前。

がっくりと肩を落とす悪商人の○○屋。

 

ご存知、大岡越前。

 

大岡越前守忠相(ただすけ)は、延宝5年(1677年)に2700石の

旗本の家に生まれ、36歳で伊勢の国の山田奉行に着任。その後普請奉行

を務め、吉宗(暴れん坊将軍です)が徳川第8代将軍職を継ぐと

江戸町奉行に累進、以後19年の長期にわたり町奉行職を務めたのち

寺社奉行となり、ついには三河国西大平(現在の岡崎市)に陣屋を置く

1万石の大名に登りつめます。

 

出世街道を邁進したエリート中のエリート官僚です。

 

町奉行職在任中は吉宗が進めた享保の改革をよく支え、その行政手腕が

高く評価されています。

 

大岡越前守のおこなった公正で人情味ある裁き(大岡裁き)は

時代劇でもシリーズ化され人気です。

 

大岡裁きには多くの逸話が残されていますが、

特に有名なのは「子争い」の名裁きでしょう。

 

2人の女が「この子は私の子どもです!」と互いに譲らず、

実母であることを主張します。

大岡越前はこの2人の女にそれぞれ子どもの片方の手を

掴むよう命じます。

 

「お前は右の手を、そっちの女は左の手を掴め。互いに子どもの

腕を引っ張り勝った方が実母である」

2人の女が双方から手を引っ張りますから子どもは痛がって泣きます。

一方の女が泣く子を憐れみついに手を放します。

 

 大岡越前がそれを見て審判を下します。

「子をおもい思わず手を放したおまえこそ実の母親だ」

 

 

もうひとつちょっといい話(?)

 

不貞を働いた男女。

「自分に非は無い。誘ったのは女の方だ!」

男は必死の釈明をします。

男の釈明に今一つ納得のいかない大岡越前。

女がちょっとご年配だったようです。

 

困った大岡越前は自分の母親に

「はたして女性の性欲は幾つになるまであるものでしょうか?」

と問いかけます。

問われた母親は静かに火鉢の灰を箸でかき回した。

 

灰になるまで

 

母より解答を得た大岡越前、この不貞事件を見事に

解決したのであります。

 

これにて一件落着!

 

 大岡越前.png

 TBS時代劇 大岡越前

 

 

ちょっと江戸のお裁き(刑事事件)について。

 

刑事裁判の手続きを吟味筋と言います。

吟味筋の一連の手続きは、犯罪捜査・事実の審理・刑罰の決定・

判決の申渡し・刑の執行です。

現在と大筋変わりません。

 

犯罪捜査の主力は同心と同心が私的に雇う目明し(岡引)です。

*同心、目明しについてはよろしければ

「必殺 中村主水の表家業と目明しについて」をお読みくださいね。

 

刑事事件が発生して容疑者が特定されると、同心・目明しが被疑者を

捕縛して、自身番屋に連行します。

時代劇で○○親分が「おい、お前ちょっと番屋まで来い」と言って

連れ込む小屋です。

ここで取り調べが行われ、有罪の嫌疑が濃厚となれば被疑者は

町奉行所送致されます。

 

ここより町奉行所に送られた被疑者の吟味が始まります。

取り調べ(吟味)の最初の席には町奉行が出ますが、

あとは下役に任せます。

被疑者には未決拘留の処置がとられ、牢屋に入ります。

「吟味中は入牢を申付ける!」

 

江戸の牢屋は小伝馬町にありまして、全国最大規模です。

封建の世ですから、身分によって牢屋の部屋の格式?も異なります。

江戸の刑罰には禁固刑、懲役刑は基本ありませんので、

牢屋はあくまで未決拘禁の場所で、刑罰としての入牢はありません。

牢屋は現代で言えば刑務所ではなく拘置所です。

 

牢内の待遇はかなりひどいものであったようです。

多くの牢内病死者が記録されています。

 

さて、その後の取り調べですが、これは町奉行所の吟味方の与力が

行います。

取り調べは事件の関係者一同の自白を得ることに主眼が置かれます。

江戸時代、自白は何物にも勝る確定証拠となりますので、

自白を得るための拷問も行われました。

ただ、自白を得るためにむやみに拷問に頼るようでは、吟味方の役人

しても自分の取り調べ下手を宣伝してしまうようなものですから、

時代劇でしばしば見られる‘気分しだいの拷問’は

なかったものと思います。

 

吟味方与力たるもの「落としの山さん」の称号

欲しかったはずでしょう。

 

自白が得られれば、供述書(口書くちがき)が作成されます。

その後供述書の最終確認を奉行が出座して行います。

お白洲での審問です。

関係者一同の前で供述書が読み上げられ、供述内容確認の捺印(爪印)

がされます。

犯罪事実がこれにより正式に確定されます。

 

以後、この供述書をもとに書面審査で刑罰が決定されます。

奉行が判決を考えるのですが、奉行が自分一人の権限内で判決を

言い渡せる範囲は中追放という刑罰までです。

重追放以上に重い刑罰を言い渡すには老中(現代の大臣に相当)の許可

必要でした。

また老中といえども遠島や死刑の判決を決定するには将軍の許可を必要

としました。

大岡越前も金さんも勝手に罪人に死刑宣告することは

できなかったわけです。

刑罰の決定は法典、過去の判例をもとにかなり厳密に行われます。

 

判決が決まると、その申し渡しがされます。

判決申し渡しは、奉行所のお白洲で奉行が口頭で下します。

これで落着です。

上訴の制度はありませんでした。

また死刑については奉行所ではなく、牢屋内で検使与力が申し渡しを

おこない即座に執行されました。

 

石井良助氏著「江戸の刑罰」より江戸の主な刑罰をみると、

以下のように分類されます。

 

生命刑(磔、獄門、火罪、死罪、下手人・・・)

身体刑(剃髪、たたき)

自由刑(遠島、追放、閉門、晒・・・)

財産刑(闕所、過料)

身分刑(奴、一宗構・・・)

栄誉刑(役儀取上、叱)

 

冒頭の「市中引き回しの上、打ち首獄門に処する!」に戻ります。

 

引き回しは死罪以上の判決を受けた罪人に課された付加刑で、

その行程(引き回しのルート)も決められていました。

獄門は打ち首となったあと、死体は試し切り(刀剣の切れ味を試す、

その専門職として山田浅右衛門が時代劇などでも有名)とされ、

刎ねられた首を3日間さらす刑罰です。

 

現代からすれば考えられない過酷な刑罰だったのです。

 

人柄温厚な大岡越前も時として峻厳な判決を下したのであります。

戦国の合戦! [戦国]

白刃で敵兵を斬り倒す馬上の武将、土煙舞い上がる中でつばぜり合い

繰り広げる雑兵たち!

刀を振るう戦国武士たちの合戦シーンは大河ドラマの見せ場です。

 

しかし合戦の場にあって刀は主要な武器ではありません。

主要な武器は、弓や鉄砲であり、あるいは礫(投石)だったようです。

飛び道具ですね。

 

敵兵と近接して戦う(白兵戦)時も、用いられた武器は槍、なぎなた

といった長柄のもの。

合戦において、刀はこうした長柄の武器を失ったときに使う補助的な

武器として使用されたようです。

刀身の短い刀より長い柄を備えた槍、なぎなたのほうが遠い間合いで

相手を攻められますので当然有利でしょう。

 

戦国時代、槍は徐々に長大化します。

当初3メートル程度の長さであった槍ですが、中には6メートルを

超えるものも登場します。

織田信長が考案したとされる3間半(6.4メートル)の長槍は有名です。

 

信長.png

 織田信長肖像画

 

この長大な槍を持つ兵士が密集して並び、槍の穂先を揃える。

とても長い槍ですから、槍で相手の兵士を突くのではなく槍を

しならせ相手を叩きます。

敵味方で猛烈に叩きあう集団戦です。

敵の一部が崩れたとみれば、そこに突入し敵陣を混乱させます。

 

この長槍の集団を叩くためには鉄砲の投入が有効でした。

 

集団で鉄砲や弓を射かけて敵陣を崩す。

武士たちがその後個人戦に移るときも長柄の武器を

刀に優先して使用する。

刀の武器としての出番はあまりなかったようです。

 

鈴木眞哉氏著「謎解き日本合戦史」によれば、応仁の乱(1467年)

から島原の乱(1637年)までの合戦における戦傷者の戦傷の内訳では、

およそ75%が鉄砲、弓あるいは投石によるもの。

刀による戦傷は7%程度しかありません。

ちなみに鉄砲と槍による戦傷はそれぞれ20%と同程度になるそうです。

 

では刀はあくまで長柄の武器を失ったときに使う補助的な武器

としての役割しか無かったのでしょうか。

 

戦国武士は合戦場で手柄をあげるため戦いますが、その手柄を証明

するため、敵の首を取ることを目的とします。

刀は傷を負った敵の首を取るための、いわば切断の道具となりました。

 

打ち取った敵の首を持ち帰り、その首を味方の大将はじめ重鎮等が

検分します。

戦功の査定です。

当然その首の格?が高ければ査定ポイントも上がります。

 

「おあむ物語」という史料があります。

石田三成の家臣の娘が関ヶ原の戦いの体験を後の世に語った体験を

した筆談集で、壮絶な戦国の情景が語られています。

落城間際の大垣城でまだ10代であったその娘は、味方の兵が

持ち帰った敵の首に化粧を施します。

首を並べ、その歯にお歯黒を施す。

お歯黒がされた歯は高貴な身分を意味します。

首の格が上がる訳です。

 

以上、ちょっとダラダラと戦国の合戦についてでした。

最後までお読み頂きましてどうも有難うございました。


新撰組の稽古と斬り合う侍 [幕末 江戸]

  

新撰組の近藤勇は数えで28歳の時に天然理心流4代目を襲名、

天然理心流試衛館の若き道場主となった。

近藤勇は道場に通う門人たちにたいし、「剣とは技よりも気組みである」

と常々教えたそうです。

「剣の勝負は気合のおしあいで決する。」

まさに実戦の剣に優れた新撰組の局長に相応しい言葉でしょう。

 

同じく新撰組の土方歳三も「斬りあいは腕でやるものではない、相手に

ぶつかっていくものだ」との言葉を残しています。

 

新撰組の稽古は常に実戦を意識したもので、例えば室内で向き合い

酒を飲んで談笑しているとき、相手がいきなり刀で斬りかかってくる

といった状況設定をして、その対応をはかるような稽古もおこなわれて

いたようです。

また彼らは稽古の際、竹刀や木刀を使わずに主に真剣を刃引きした刀を

用いたそうです。

 

近藤勇.jpg

近藤勇

 

刀で相手を斬るためには、当然ですが自分の刀が相手に届く位置まで

近づかねばなりません。

そして当然のことながら、こちらの刀が相手に届くということは、相手

刀も自分に届くということです。

 

幕末の侍たちは真剣で斬りあう時の緊張感、恐怖感をどう感じたので

しょうか。

 

綱淵謙錠著「幕末風塵録」という本に、侍の斬りあいの目撃談が

あります。

こちらの話は現代人にもリアル感があり興味深いのでご紹介します。

 

慶応4年(1868年)の戊辰戦争。

現在の福島県白河で会津軍と新政府軍が戦ったとき、目撃者となる

人物は戦禍を逃れるため避難中でした。

その避難中、偶然に2人の侍の斬りあいを目撃することになります。

 

「1人は会津の侍、もう1人は新政府軍(官軍)の方でした。わしは

恐ろしくて、震えながら崖の上の木立の間からそうっと見ていました。

彼らはお互い名のりました。30歳前後の侍でした。刀を抜き合うと、

シャリーンと刀の先が触れ合いました。それと同時に後ろに2、3歩

退きました。退くと両人は狙い合うようにして動きません。

そしてまた2,3歩ズズッズズッと前へ進み出ると刀の先がシャリーン

と触れ合います。すると2人の侍はまた後ろに数歩後退しました。

2人の侍はおたがい真っ青になり、肩をいからし動きません。

2人の荒々しい息づかいが20メートルほど離れた私の耳元にも

聞こえてきます。

どのくらいの時間が過ぎていったのか夢中で見ていた私には

わかりませんが、またシャリーンという音を聞いた時にどちらかの侍が

叫び声をあげました。

再び刀を打ち合う音がしばらく続き、やがて地響きがするように

2人の侍が共倒れするのを見て、私は思わず目をふさぎました」

 

幕末史に残る数々の事変は、この極度の緊張と恐怖の中で侍たちにより

展開されたのでしょう。

お読み頂き有難うございます。今年度もよろしくお願い致します。

 


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