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備中高松城城主 清水宗治 見事、名を残す [戦国]

「忍城を落とし、武功をあげよ!」

秀吉に命じられた石田三成は、忍城近くを流れる利根川を利用した

水攻めを決意。

忍城の周辺に巨大な提(石田提)を築く。

 

忍城は本丸を残し、水に沈む。

 

のぼう(成田長親)は、浮き島となった忍城に籠城する士兵、領民を

鼓舞するため、小舟に乗り水上に漕ぎ出すと、忍城を取り囲む

三成方軍勢の前で田楽踊りを披露する。

 

映画「のぼうの城」の見せ場

野村萬斎さんの田楽踊りが見事でした。

 

 清水宗治錦絵.jpg

 清水宗治 錦絵

 

自らの最期をこの映画のシーンのように演出し飾った戦国武将

がいました。

 

備中高松城城主 清水宗治

 

舞台は、天正10年(1582年)64日の備中高松城です。

 

織田の中国方面軍司令官の秀吉は、天正103月に姫路を出発し、

翌月4月初旬岡山に入る。

中国の毛利氏は備中(備前との国境)に7つの城からなる防衛ラインを

ひいていた。

秀吉は岡山に入ると、この七城の中でもとりわけ難敵と思われる

備中高松城の城主・清水宗治に織田方への帰服を誘う。

 

「織田方に味方すれば、備中一国を与えよう」

 

宗治は毛利家への恩義を理由に、秀吉の申し出を拒絶。

 

「毛利家に恩義を受けるわが身なれば、

お味方に参ずること思いもよらず」

 

備前宇喜多の兵を合わせ、およそ35千の大軍を率いた秀吉は4月備中

への侵入を開始した。

七城を次々に攻略し、ついに備中高松城を取り囲む。

 

備中高松城は平城ながら、三方を沼と深田が囲み、城には1本の畦道が

通じるのみの堅固な城。

城中5千の兵が城を守る。

 

力攻めを避けたい秀吉は、軍師官兵衛の献策を入れて

水攻めの戦法をとる。

水攻めで、持久戦に持ち込む。

 

秀吉は城の周囲に長大な堤を築き、近くを流れる足守川の水を

せき入れた。

季節は五月雨のころ、降り続く雨により水かさの増した足守川

の水が流入し、城は湖水に浮かぶ浮島となった。

 

「備中高松城を救え!」

 

窮地におちた城を救うため、毛利の援軍が駆けつける。

毛利援軍と秀吉軍が対峙するが、いちめんの水を前にして双方ともに

戦いを仕掛けられない。

危急の城を目前にして焦燥感を強める毛利軍に、さらに信長親征

の報が伝わる。

 

「織田信長がみずから大軍を率いてこの地へ来る」

 

とても勝ち目はない!

 

毛利側は秀吉との和睦交渉に急ぎ取り掛かる。

毛利側は使僧の安国寺恵瓊を秀吉のもとに遣わし、和睦を講じる。

秀吉の提示した講和条件は毛利側にとって、受け入れ難い厳しい

ものであった。

秀吉は毛利側に対して、係争中の領国のみならず毛利が支配する

他の領国の割譲と毛利に忠節を尽くす城主・清水宗治の切腹を要求。

 

秀吉軍優勢の状況下、秀吉は和議交渉の主導権を握った。

 

天正10年6月2日の早暁、

本能寺の変。信長死す。

 

翌6月3日、本能寺の変報が秀吉にもたらされる。

 

事態は変わった。

信長死すの情報が毛利側に伝わる前に和議を成立させねば!

 

同日夕刻には秀吉は毛利側との交渉に再び臨み、条件の緩和を示す。

 

「早急に和議を結ぶことが織田、毛利の両家の利益となろう。

領国割譲の条件も毛利側の提案に従おう。ただ信長様への手前、

戦勝の証として清水宗治には腹を切ってもらう。」

 

この講和条件が伝わると、清水宗治は己の切腹が恩義ある毛利に有利な

条件をもたらすと知り、みずから進んで切腹を申し出る。

 

和議交渉が成立した。

 

翌日4日、備中高松城城主・清水宗治は兄の僧侶・月清と

軍監・末近左衛門尉の両名を従えて小舟に乗り水上に漕ぎ出し、

秀吉本営の目前で漕ぎとめる。

 

敵味方、城中の兵も合わせれば、およそ7万の軍兵(観客)が

固唾をのんで見守る中、揺れる小舟の上で清水宗治は能を舞う。

 

月清が、末近左衛門尉が自刃する。

 

宗治、辞世を詠じて切腹する。

 

備中高松城城主・清水宗治の辞世

「浮世をば今こそ渡れもののふの名を高松の苔に残して」

 

秀吉は宗治の切腹を見届けると、堤をきって水をひかせ、城兵を

解き放った。

 

備中高松城城主・清水宗治は籠城戦の終幕を飾った切腹によって、

もののふの名を戦国史に残した。

 

 

最期までお読みいただき有難うございます。

宜しければ、侍気分HPをご覧ください。

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天下布武 織田信長の暴風的衝動と本能寺の変! [戦国グッズ]

 

 信長.png

 

「彼は中背痩躯で髭は少なく、少し憂鬱な面影を有していた。

極めて戰を好み、武技の修行に専念し、名誉心強く、義に厳しかった。

戦術に極めて老練で、非常に性急であり・・・

彼はみずからに加えられた侮辱に対して懲罰せずにはおかなかった。

彼は日本の全ての王侯を軽蔑し・・・」

 

「彼がわずかに手をふり‘退け’と合図をすれば、どんなに多く広間に

詰めていても、家臣たちは一瞬にしていなくなってしまう。家臣たちの

狼狽の様子は、彼らの目の前に突然獰猛な牡牛が現れたかのようである」

 

当時、来日し信長の知遇を得たイエズス会のパードレが記した信長の

人物評です。

 

大河ドラマ小説などで描かれる信長の人物像、

 

‘既成の価値を歯牙にもかけない近代的な合理主義精神の持ち主'

‘残忍ともいえる無神論者、 あるいは魔王的な破壊者’

 

はイエズス会のパードレたちが記した人物評に多く合致しています。

 

「軍師 官兵衛」でも、‘便利な道具’である家臣たちは獰猛な牡牛の

ごとき信長の意向に沿うように細心の注意を払い、期待される成果を

あげるため必死に努めていますね。

 

 

尾張を平定した信長は、永禄10年8月稲葉山城を攻略、本拠を

稲葉山城改め岐阜城に移す。

宿願であった隣国美濃の掌握に成功した信長は、ここに初めて

「天下布武」の4文字を刻んだ印判を使用します。

同年11月に信長が美濃の士豪たちに宛てて発行した知行安堵状に

「天下布武」印判の使用が初見されています。

 

天下布武-天下に武を布(し)く

 

武による天下平定の意思表明です。

 

翌年の永禄11年7月、越前の朝倉義景のもとに庇護されていた

足利義昭を美濃に迎えた信長は、同年9月室町幕府体制の復興を

大義名分に掲げ、ついに上洛(京の都に入る)の途につきます。

 

この時信長がすでに明確な天下統一の意思と構想をもって、将軍義昭を

伴い上洛をはたしたのかどうか見解がわかれるところのようです。

 

ただすでに永禄8年には信長は麒麟の鱗という文字の草体をもとにした

花押(署名代わりに使われる記号、符号)を使い始めています。

麒麟は中国で生み出された想像上の霊獣で世の中がよく治まっている

ときにその姿を現すとされています。

 

室町幕府体制の復興はあくまで信長上洛の大義名分に過ぎず、独自の

天下統一の政権を指向しての上洛であったと思われます。

 

信長上洛

天下布武

 

信長の威風に天下は騒然となります。

天下布武を掲げ、天下平定に邁進した信長がどのような政治体制を

目指していたのかどうかわかりません。

日本の中世を終焉させ、近世を切り拓いたとされる信長が具体的に

どのような天下平定のビジョンを持っていたのか?

 

信長の行動、振る舞いをみると、信長を突き動かしたものはビジョン

という生易しいイメージではなく、むしろ‘暴風的な衝動’であった

ような気すらしてきます。

 

18歳で織田家家督を継いだ信長は桶狭間の戦いをふり出しに49歳で

非業の死を迎えるまでまさに戦闘の連続の日々を送る。

死と隣り合わせの緊張の連続と、「敦盛」の一節

「人間五〇年、下天の内をくらぶれば・・・」

小唄「死のうは一定(いちじょう)・・・」を好んだといわれる

信長の死生観が信長の天下布武への衝動をより苛烈なものにしたのかも

しれません。

 

本能寺で迎えた信長最期の時、信長がとった行動、振る舞いも

また信長らしい。

 

「是非に及ばず」

 

光秀謀反と知った信長は無駄な抵抗と理解はしたが、

「みずからに加えられた侮辱」に対して激しい怒りの衝動にかられ、

みずから迫りくる敵兵に向け矢を射る。

弓の弦が切れると、槍を持って戦う。

 

重傷を負い自決を覚悟するまで、信長は死力を尽くし戦った。

 

 

 P1030370.JPG

 本能寺の変 デザインランプ

 

侍気分では織田信長など戦国、幕末の侍たちのグッズを取り扱って

います。

宜しければHPご覧ください。

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淀殿と悲しい秀吉の手紙  [戦国]

 

 淀殿.jpg

 淀殿肖像画

 

秀吉は史上例のない破格の出世をする。

 

尾張中村の土民の子せがれとして生まれ、わずか一代で

関白、太閤へと昇進。

 

英雄はただ一代でおわる。

秀吉の死後わずか17年で豊臣家は滅亡します。

 

その出自のため譜代の重臣を持たず、数少ない直臣団も武功派と文治派

に分裂。

脆弱な家臣団しか持てなかったことが豊臣政権短命の要因とされる。

 

秀吉子飼いの武将たちは家康の計略にはまり、関ヶ原の戦いでは東西に

分かれ対立、豊臣家滅亡を招く。

 

 

 秀吉が五大老に宛て、幼い秀頼の行く末を案じて書いた手紙が残っています。

 

「秀よりの事 なりたち候やうに 此かきつけ しゆ(衆)として

たのミ申し候 なに事も 此ほかにわおもいのこす事なく候 かしく」

 

(秀頼のこと 成り立つように この書付 五大老衆に頼みます。

 この他に思い残すことはありません)

 

「辺々秀よりの事 たのミ申し候 五人のしゆ たのミ申し候」

 

(かえすがえすも秀頼の事お頼み申します五人の衆なにとぞ頼みます。)

 

秀吉は病床に伏すと、五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、

上杉景勝、宇喜多秀家)、五奉行(前田玄以、浅野長政、増田長盛、

石田三成、長束正家)にたいし、幾度となく秀頼に忠誠を尽くす旨の

誓書を差し出すよう求めます。

 

恐らくは将来の豊臣家臣団の分裂を予見していたであろう秀吉は

しゆ(衆)にたいし何度となく、結束して秀頼の将来をもり立てるよう

懇願したのです。

 

慶長3年8月18日、秀吉死去。この時秀頼はまだ6歳の幼子でした。 

 

関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり、老獪なる家康の天下獲りが進展。

すべては家康の画策の中に事が運ばれます。

「徳川の天下を万全のものとする!」

大坂方の事実上の最高権力者は淀殿で、外交上の主導権を握って

いました。

 

大坂方の外交手だては拙劣で、ただ家康に翻弄され続けます。

 

頼みとする将も今は亡く、家康に対抗できる人材もいない。

 

慣れぬ外交の駆け引きから心労が高じ、時に病に伏しながらも淀殿は

豊臣存続のため、秀頼を守るためのぎりぎりの交渉をおこない、

必死の策を講じます。

 

大規模な神社仏閣の造営をおこない寺社勢力の取り込みをはかり、

あるいは諸大名に懇切を極めた手紙を送り助力を願う。

徳川と豊臣共存の道を探ります。

 

慶長19年11月、大阪の陣が開戦。

 

淀殿は戦国の世の女性らしく、鎧を身に着け軍議の席に出て将兵を

鼓舞します。

 

言われるように淀殿の軍議への臨席が、真田幸村や後藤又兵衛など

名だたるつわものたちの軍略を生気ない妥協的な作戦に変え、大坂方の

敗北をさらに決定づけたかもしれません。

 

あるいは、秀頼の命を守る事を至上の願いとする淀殿と、華々しい武辺

の最期に悲願をかけた幸村や又兵衛とではその拠るべき覚悟が異なって

いたのかもしれません。

 

慶長20年5月7日の深夜、大坂城は落城。

 

淀殿がその生涯に経験する3度目の、そして最後の落城となった。

 

翌5月8日、淀殿は秀頼とともに自害する。

 

「秀よりの事 たのミ申し候 此ほかにわおもいのこす事なく候」

 

 

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