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中国大返しと戦国の使者 [戦国]

天正10年(1582年)6月3日の夜半、備中高松城を囲む秀吉のもとに、

前日2日早暁 明智光秀謀反により織田信長が本能寺にて死すとの情報が

もたらされる。

 

秀吉は素早く毛利側と講和を結び、翌日4日に備中高松城を開城させると、

光秀討伐のため京を目指し全軍を移動させる。

7日には本拠姫路城に帰着。

ここで在庫する金銀米銭を残らず将兵に分配、姫路での籠城戦の

意思は無く、光秀との乾坤一擲の決戦に打ってでる決意を将兵たちに示す。

 

天正10年(1582年)6月13日、山城の国山崎で会戦、

1日にして光秀を倒す。

本能寺の変報をうけて、実におよそ200kmの行程を駆け抜け、

わずか10日後に光秀との天王山の戦いに勝利した秀吉。

世に名高い秀吉の中国大返しです。

 

秀吉.jpg

 羽柴秀吉肖像画

 

ところで、秀吉陣営に本能寺の変の情報を知らせたのは、信長の家来で

京の政商・長谷川宗仁が送った使者であるとされています

 

あるいは、光秀側が毛利の小早川隆景に向けて出した使者が誤って

秀吉の陣所に紛れ込んだところを捕らえられてしまい、彼が所持していた

書状により信長の死が秀吉側に確認されたとも伝えられています。

光秀から書状を託された使者はその情報伝達の任務を遂行できなかった

ことになります。

 

この使者が運ぶ書状が無事に毛利側に届いていれば・・・。

 

齋藤真一氏著「中世から道を読む」によると、戦国時代の古文書に

‘通路不自由’‘路次不自由’という文言がしばしば登場する。

 

「通路不自由のため疎遠となり・・・」

「路地不自由のため使者を送れず・・・」

「○○・○○両国間が通路不自由につき・・・」

 

武将間の書状のやり取りの中で、‘路次不自由’は多く使われるそうです。

 

同書は‘路次不自由’の背景として、3つの環境条件をあげています。

遠いという距離感(遠いという状況は前近代社会ではほぼ断絶の状態)

と自然条件、そして戦国の世では特に大きな意味を持つ軍事的関係による

‘通行障害’です。

 

この‘通行障害’が見込まれるなか、明智光秀は本能寺の変を伝える

火急の機密情報を使者に託します。

そして使者は秀吉の兵に捕らえられてしまいます。

 

書状を相手方に確実に渡し、その委細を言葉で伝える使者の能力が

しばしば戦国の世の情勢を大きく左右します。

 

山田邦明氏著「戦国のコミュニケーション」で戦国のメッセンジャー

の担い手として「使者」と「飛脚」が説明されています。

 

有能な使者には2つのパターンがあり、理解力・交渉力に長じたものと

足の速いものがそれにあたる。

 

前者は主人の内意を忘れずに遠い道のりを旅し、先方との交渉事を行う。

先方を味方に引き入れ、あるいは援軍を依頼するなど相当の才覚が要求

される役割を担う使者です。

もちろん、このような有能な使者の数はごく限られており、各所に派遣

すればすぐに、払底してしまうため、戦国大名も有能な使いと並みの使い

を使い分けていたようです。

 

後者はとにかく早く情報を伝える必要がある場合に使わされる使者。

俊足を生かし書状をすばやく先方に届ける使者です。

 

この足の速い使者と飛脚との違いについて、著者は使者とは家臣や僧侶

などの立場を持つもの、飛脚は名前を表にださない身分のひくい人々に

よって構成されたと推察しています。

 

 

戦国の時代、情報は往々にして‘不自由’となる通路を実際に移動する

生身の人の手によって書状という形で伝えられます。

あるいは、情報は時に‘うわさ話’として生身の人の口耳を介して伝え

られます。

 

いずれにせよ直接に人と対面しはじめて情報を伝え、入手します

 

以上至極当然な事ですが、大河ドラマを見るときなど必死の形相で情報を

伝える使者たちの苦労を想像してしまいます。

 

お読み下さり有難うございます。

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猛将 柴田勝家と湯漬け飯の話 [戦国]

永禄三年(1560年)、25000の大軍を率いて駿府を出陣した今川義元は

尾張に侵攻、若き信長はこれを迎え撃ち、見事に撃破する。

世に名高い桶狭間の合戦です。

 

信長の領国の最前線となる砦に対し今川勢の攻撃が開始されたとの

知らせを受けると、仮眠をとっていた信長は起き上がり‘敦盛’を舞う。

 

「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり・・・」

 

そして具足をつけ、立ったまま湯漬けを食べると、僅かな近臣を従え

清州城から駆け出る。

 

大河ドラマでも度々描かれるシーンです。

具足を纏い、決死の覚悟を決めた信長が立ちながら湯漬けをかきこむ姿が

恰好よいです。

 

永山久夫氏著「戦国の食術」に、湯漬けは信長の‘先手必勝の勝負食’で

あり、出陣や軍議の前に湯漬けをさらさらとかきこんだと書かれています。

軽食ながら、気を落ち着かせる効果があったことも信長が湯漬けを食した

理由だそうです。

また湯漬けには菜がつきもので、信長の場合は尾張特産の豆味噌がその

原料であったようです。

 

湯漬けがいつごろから食されてきたのか、ちょっと調べてみたのですが、

これがなかなかわかりません。

 

古来主食となった米の調理法ですが、平安時代の末期頃より

姫飯(ひめいい)が普及していきます。

それ以前は強飯(こわいい)といって甑で蒸された米が食べられていた

ようです。

(ちなみに強飯を日に干して乾燥させたものが干飯(ほしいい)で、

戦国の兵士たちの戦場における保存食です。軍師官兵衛の合戦シーンで

兵士たちが身にくくりつけている筒状の袋のなかにはこの干飯や梅干し

焼き塩、干した芋の茎などの携帯食も入っています。)

 

姫飯は鍋や釜で煮たもので、古くから粥といったものをさらによく炊いて

水気を少なくしたもので、現在の白米飯と変わりません。

強飯や姫飯を湯に漬けた(盛夏の頃には水に漬けて食べる)湯漬けは饗宴

でも供されていたようです。

 

信長の時代には姫飯の湯漬けが一般的で、信長がかきこんだ湯漬けは

つまり白米飯に湯をかけただけのとてもシンプルなものであったようです。

 

 柴田勝家.jpg

 柴田勝家 肖像画

 

湯漬けと戦国武将の話といえば、‘瓶(かめ)割り柴田’こと 

柴田勝家に伝わる湯漬けの逸話が印象深い。

 

秀吉が山崎の合戦で明智光秀を討ち滅ぼして半月後の天正10年(1582年)

627日、織田家の筆頭家老 柴田勝家の提唱により

清州会議がひらかれた。

 

会議の議題は信長遺領の配分と織田家家督の決定。

 

清州会議の結果、主君信長の仇を討った秀吉の地位はいよいよ高まり、

勝家の威信は落ちる。

 

秀吉と勝家両者間の確執は深まり、翌天正114月ついに賤ヶ岳の合戦

となる。

秀吉の調略を受けていた柴田軍の諸将は戦意に乏しく、合戦はあっけなく

秀吉の勝利に終わった。

 

敗走した柴田勝家は少数の兵に守られ、前田利家の居城に立ち寄る。

利家は柴田軍として合戦に参加していたが、戦場を離脱しすでに居城に

入っていた。

 

(利家の賤ヶ岳の合戦における立場は微妙でした。利家と秀吉との仲は

たいそう親しい。一方で利家は信長の北陸方面軍に属し、勝家の指揮下

にあった。)

 

利家と対面した勝家は、利家が賤ヶ岳の戦場で一戦もせずに退却して

いったことを一言も咎めなかった。

 

利家の戦線離脱は勝家側からすればあくまで裏切り行為ではあったが、

勝家は利家に対しこれまでの協力を感謝し、今後は秀吉を頼れと言った

そうである。

 

そして利家に所望した湯漬けを食すと、

柴田勝家は 越前の国 北ノ荘に向け立ち去った。

 

 

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山中鹿介幸盛 ー 願わくば、我に七難八苦を与えたまえ [戦国]

「その百折不撓(ひゃくせつふとう)の精神の強靭さは、

驚嘆すべきものがある。日本歴史上おそらく類がないであろう。」

 

海音寺潮五郎氏著の「武将列伝―山中鹿之介」に鹿介を評してこう

記されています。

 

山中鹿介幸盛の主家、尼子氏は経久の代に山陰地方を席巻、近隣の諸国

打ち従え、天文初年(1532年)には11か国の国人を従える大大名家

となる。

その後、経久の子晴久が跡目相続をしたころより安芸の毛利元就に

圧迫され、尼子氏は次第に衰運に向かう。

そして晴久の嫡子義久の代、尼子氏は永禄9年(1566年)にその本拠、

富田城が毛利軍の猛攻を受け陥落、戦国大名としての尼子氏は滅亡した。

 

山中鹿介は富田城の奪回のためひそかに同志を募る。

尼子の血筋を継ぐ勝久を擁して、尼子氏再興のため立ち上がった。

 

一時は出雲地方をほぼ手中とするほどの勢いを得るが、毛利軍との

決戦に敗れ、勝久と共に毛利氏の捕虜となる。

その後逃亡し、再び一時的に尼子の復興に成功するが、

再び毛利に敗れ落ち延びる。

 

鹿介は幾度となく苦境に陥るが、尼子再興に死力を尽くす。

幾度敗れても、尼子再興をかけて立つ。

 

織田信長に援助を願い、天正5年(1577年)秀吉の中国遠征が始まると、

その先鋒隊となって、勝久とともに播磨の上月城に入城し

再度尼子氏復興を目指す。

 

上月城を得て鹿介ら尼子軍は再び勢いを戻すが、織田方にあった三木城

の別所長治が離反すると、信長は秀吉に陣を払い三木城攻めに

向かうよう命じる。

 

毛利の大軍に囲まれ孤立無援となった上月城は落城。

勝久は自害してこの世を去り、捕虜となった鹿介もついに謀殺される。

 

尼子家再興の道は絶たれる。

 

芳年武者絵山中鹿之助 .png 

 芳年武者絵 山中鹿之助

 

「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」

尼子の再興を決意した鹿介が三日月に祈ったとされる逸話が有名です。

 

鹿介は16歳の時に病弱な兄に代わり家督を継ぐが、この時に

代々山中家に伝わる三日月の前立てと鹿の角の脇立のついた

冑(かぶと)を譲り受け、名を基次郎より鹿介に改めます。

 

名を改めた鹿介が月に向かい、

「願わくは三十日のうちによき敵に会わせたまえ、これを討って

武名を上げたいと願う」

と祈る逸話も伝えられている。

 

鹿介は江戸・幕末にかけて、主家の再興にその生涯を捧げた忠臣として

その名が喧伝され、頼山陽や勝海舟にも高く評価されます。

 

また昭和12年には、小学校の国語教科書に‘山中鹿之助’を主人公

とした「三日月の影」が登場しその名は全国的に知られるところと

なったようです。

 

鹿介が三日月に主家再興を祈るイメージがいつ定着したのか

定かではありません。

 

ただ古来霊力の宿るとされる三日月に祈る鹿介の姿は、

確かに尼子の復興に執念をかけたその生涯を表象しているよう

思われます。

 

 

お読み下さり有難うございます。

侍気分の商品が月刊「歴史人」6月号「信長の謎100」特集に

掲載されます。


備中高松城城主 清水宗治 見事、名を残す [戦国]

「忍城を落とし、武功をあげよ!」

秀吉に命じられた石田三成は、忍城近くを流れる利根川を利用した

水攻めを決意。

忍城の周辺に巨大な提(石田提)を築く。

 

忍城は本丸を残し、水に沈む。

 

のぼう(成田長親)は、浮き島となった忍城に籠城する士兵、領民を

鼓舞するため、小舟に乗り水上に漕ぎ出すと、忍城を取り囲む

三成方軍勢の前で田楽踊りを披露する。

 

映画「のぼうの城」の見せ場

野村萬斎さんの田楽踊りが見事でした。

 

 清水宗治錦絵.jpg

 清水宗治 錦絵

 

自らの最期をこの映画のシーンのように演出し飾った戦国武将

がいました。

 

備中高松城城主 清水宗治

 

舞台は、天正10年(1582年)64日の備中高松城です。

 

織田の中国方面軍司令官の秀吉は、天正103月に姫路を出発し、

翌月4月初旬岡山に入る。

中国の毛利氏は備中(備前との国境)に7つの城からなる防衛ラインを

ひいていた。

秀吉は岡山に入ると、この七城の中でもとりわけ難敵と思われる

備中高松城の城主・清水宗治に織田方への帰服を誘う。

 

「織田方に味方すれば、備中一国を与えよう」

 

宗治は毛利家への恩義を理由に、秀吉の申し出を拒絶。

 

「毛利家に恩義を受けるわが身なれば、

お味方に参ずること思いもよらず」

 

備前宇喜多の兵を合わせ、およそ35千の大軍を率いた秀吉は4月備中

への侵入を開始した。

七城を次々に攻略し、ついに備中高松城を取り囲む。

 

備中高松城は平城ながら、三方を沼と深田が囲み、城には1本の畦道が

通じるのみの堅固な城。

城中5千の兵が城を守る。

 

力攻めを避けたい秀吉は、軍師官兵衛の献策を入れて

水攻めの戦法をとる。

水攻めで、持久戦に持ち込む。

 

秀吉は城の周囲に長大な堤を築き、近くを流れる足守川の水を

せき入れた。

季節は五月雨のころ、降り続く雨により水かさの増した足守川

の水が流入し、城は湖水に浮かぶ浮島となった。

 

「備中高松城を救え!」

 

窮地におちた城を救うため、毛利の援軍が駆けつける。

毛利援軍と秀吉軍が対峙するが、いちめんの水を前にして双方ともに

戦いを仕掛けられない。

危急の城を目前にして焦燥感を強める毛利軍に、さらに信長親征

の報が伝わる。

 

「織田信長がみずから大軍を率いてこの地へ来る」

 

とても勝ち目はない!

 

毛利側は秀吉との和睦交渉に急ぎ取り掛かる。

毛利側は使僧の安国寺恵瓊を秀吉のもとに遣わし、和睦を講じる。

秀吉の提示した講和条件は毛利側にとって、受け入れ難い厳しい

ものであった。

秀吉は毛利側に対して、係争中の領国のみならず毛利が支配する

他の領国の割譲と毛利に忠節を尽くす城主・清水宗治の切腹を要求。

 

秀吉軍優勢の状況下、秀吉は和議交渉の主導権を握った。

 

天正10年6月2日の早暁、

本能寺の変。信長死す。

 

翌6月3日、本能寺の変報が秀吉にもたらされる。

 

事態は変わった。

信長死すの情報が毛利側に伝わる前に和議を成立させねば!

 

同日夕刻には秀吉は毛利側との交渉に再び臨み、条件の緩和を示す。

 

「早急に和議を結ぶことが織田、毛利の両家の利益となろう。

領国割譲の条件も毛利側の提案に従おう。ただ信長様への手前、

戦勝の証として清水宗治には腹を切ってもらう。」

 

この講和条件が伝わると、清水宗治は己の切腹が恩義ある毛利に有利な

条件をもたらすと知り、みずから進んで切腹を申し出る。

 

和議交渉が成立した。

 

翌日4日、備中高松城城主・清水宗治は兄の僧侶・月清と

軍監・末近左衛門尉の両名を従えて小舟に乗り水上に漕ぎ出し、

秀吉本営の目前で漕ぎとめる。

 

敵味方、城中の兵も合わせれば、およそ7万の軍兵(観客)が

固唾をのんで見守る中、揺れる小舟の上で清水宗治は能を舞う。

 

月清が、末近左衛門尉が自刃する。

 

宗治、辞世を詠じて切腹する。

 

備中高松城城主・清水宗治の辞世

「浮世をば今こそ渡れもののふの名を高松の苔に残して」

 

秀吉は宗治の切腹を見届けると、堤をきって水をひかせ、城兵を

解き放った。

 

備中高松城城主・清水宗治は籠城戦の終幕を飾った切腹によって、

もののふの名を戦国史に残した。

 

 

最期までお読みいただき有難うございます。

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淀殿と悲しい秀吉の手紙  [戦国]

 

 淀殿.jpg

 淀殿肖像画

 

秀吉は史上例のない破格の出世をする。

 

尾張中村の土民の子せがれとして生まれ、わずか一代で

関白、太閤へと昇進。

 

英雄はただ一代でおわる。

秀吉の死後わずか17年で豊臣家は滅亡します。

 

その出自のため譜代の重臣を持たず、数少ない直臣団も武功派と文治派

に分裂。

脆弱な家臣団しか持てなかったことが豊臣政権短命の要因とされる。

 

秀吉子飼いの武将たちは家康の計略にはまり、関ヶ原の戦いでは東西に

分かれ対立、豊臣家滅亡を招く。

 

 

 秀吉が五大老に宛て、幼い秀頼の行く末を案じて書いた手紙が残っています。

 

「秀よりの事 なりたち候やうに 此かきつけ しゆ(衆)として

たのミ申し候 なに事も 此ほかにわおもいのこす事なく候 かしく」

 

(秀頼のこと 成り立つように この書付 五大老衆に頼みます。

 この他に思い残すことはありません)

 

「辺々秀よりの事 たのミ申し候 五人のしゆ たのミ申し候」

 

(かえすがえすも秀頼の事お頼み申します五人の衆なにとぞ頼みます。)

 

秀吉は病床に伏すと、五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、

上杉景勝、宇喜多秀家)、五奉行(前田玄以、浅野長政、増田長盛、

石田三成、長束正家)にたいし、幾度となく秀頼に忠誠を尽くす旨の

誓書を差し出すよう求めます。

 

恐らくは将来の豊臣家臣団の分裂を予見していたであろう秀吉は

しゆ(衆)にたいし何度となく、結束して秀頼の将来をもり立てるよう

懇願したのです。

 

慶長3年8月18日、秀吉死去。この時秀頼はまだ6歳の幼子でした。 

 

関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり、老獪なる家康の天下獲りが進展。

すべては家康の画策の中に事が運ばれます。

「徳川の天下を万全のものとする!」

大坂方の事実上の最高権力者は淀殿で、外交上の主導権を握って

いました。

 

大坂方の外交手だては拙劣で、ただ家康に翻弄され続けます。

 

頼みとする将も今は亡く、家康に対抗できる人材もいない。

 

慣れぬ外交の駆け引きから心労が高じ、時に病に伏しながらも淀殿は

豊臣存続のため、秀頼を守るためのぎりぎりの交渉をおこない、

必死の策を講じます。

 

大規模な神社仏閣の造営をおこない寺社勢力の取り込みをはかり、

あるいは諸大名に懇切を極めた手紙を送り助力を願う。

徳川と豊臣共存の道を探ります。

 

慶長19年11月、大阪の陣が開戦。

 

淀殿は戦国の世の女性らしく、鎧を身に着け軍議の席に出て将兵を

鼓舞します。

 

言われるように淀殿の軍議への臨席が、真田幸村や後藤又兵衛など

名だたるつわものたちの軍略を生気ない妥協的な作戦に変え、大坂方の

敗北をさらに決定づけたかもしれません。

 

あるいは、秀頼の命を守る事を至上の願いとする淀殿と、華々しい武辺

の最期に悲願をかけた幸村や又兵衛とではその拠るべき覚悟が異なって

いたのかもしれません。

 

慶長20年5月7日の深夜、大坂城は落城。

 

淀殿がその生涯に経験する3度目の、そして最後の落城となった。

 

翌5月8日、淀殿は秀頼とともに自害する。

 

「秀よりの事 たのミ申し候 此ほかにわおもいのこす事なく候」

 

 

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石田三成 「義は我にあり!」 [戦国]

捕らえられた石田三成は洛中を引き回され、六条河原の刑場で処刑される。

刑場に向かう三成は喉が渇き、警護の者に白湯を求める。

警護の者は白湯の代わりに、持ち合わせた干し柿を三成に差出した。

 

「白湯は用意できない。喉が渇いているならこの干し柿を召されよ」

 

三成は「干し柿は胆の毒(腹を冷やす)であるからご遠慮する」

と断る。

これを聞いた警護の者は「これから首を刎ねられるものが腹を気遣う

とはまことに笑止」と三成を嘲笑した。

すると三成は「お前らのようなものには理屈通りかもしれないが、

大義を思い、抱く本望の達成を望むものは首を刎ねられるその瞬間

まで命を大事にするものだ」と言い放った。

 

石田三成肖像画.png

 石田三成肖像画

 

慶長5年(1600年)915日午前8時、関ヶ原にて先端の火ぶたが、

切って落とされた。

 

当時、時代の気運は新たな秩序と統一を求め、徳川時代の集権体制へ

向けてカウントダウンが始まっていたが、天下をめぐる情勢は依然と

して流動的ではあった。

 

関ヶ原の決戦は日本全国の大名を巻き込んだ天下の趨勢を決定づける

まさに天下分け目の戦いとなった。

 

東軍の総大将徳川家康255万石の大大名。

豊臣家臣団の中で他を圧倒する勢力を誇っていた。

 

一方西軍の実質的な大将は石田三成。

禄はわずか近江佐和山194,000石。

 

家康はその圧倒的な勢力を背景に、恩賞を約して豊臣恩顧の諸大名の

取り込みをはかる。

家康が諸大名に出した手紙の総数は実に260通を超えるそうです。

 

一方三成は亡き太閤秀吉への恩義の名のもとに西軍勢力を結集させる。

後に捕らわれの身となった三成が、

「宇喜多秀家、毛利輝元をはじめ同心しない者を強いて語らって

軍を起こした」と語ったように、西軍は実態として三成が演出した

軍勢であった。

 

関ヶ原の決戦はわずか1日で決着をみます。

 

小早川秀秋の裏切りにより膠着していた戦局は一変し、東軍勝利に

決したと伝えられます。

 

三成は関ヶ原の戦場を落ち延び、大坂での再挙をはかります。

 

「石田三成を捕らえた者には褒美として年貢を永久に免除する」

厳しい家康の三成捜索が開始されて6日目、三成は東軍兵士に

捕らわれます。

 

冒頭の話は、捕らわれ刑場に向かう三成に残された逸話です。

 

今井林太郎氏著「石田三成」に三成最期の時をめぐる逸話が

紹介されています。

 

浅野幸長が、細川忠興が、福島正則が・・・

東軍についた大名たちは、三成が‘無用な乱’を引き起こしたことを、

敗北のあとも自害せずに逃げ延び捕縛された様を非難し、嘲笑します。

 

三成は重ねて昂然と答える。

「この度の戰は豊臣存続のため徳川殿を打ち滅ぼす義戦であった。

徳川殿打倒の機会を掴むため生き延びる事こそ大志を抱くものの道だ。

ただ討ち死にを望むは下級武者の振る舞い。自分が敗れたのは全くの

天運であった。」

 

残された逸話からは、三成の強烈な自負心がうかがわれます。

 

秀吉亡き後、多くの秀吉恩顧の大名が家康になびく情勢下で戦われた

関ヶ原決戦は、確かに石田三成のみが成しえた戦いであったと

思われます。

 

豊臣の命運を担い、戦い敗れた三成は揺るがぬ信念を抱いて

いたのでしょう。

 

豊臣政権の存続にこそ大義がある。

「義は我にあり!」

 

お読みいただき有難うございます。

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「軍師 官兵衛」 名前の話 [戦国]

 

「軍師 官兵衛」

黒田官兵衛を筆頭に~兵衛の名前が多く登場します。

竹中半兵衛、母里武兵衛、母里太兵衛。

もうすぐ後藤又兵衛も登場しますね。

 

磯田道史氏著「江戸の忘備録」によれば、(人別帳から確認できる)江戸

時代には日本人男性の約半数が~兵衛、右衛門、左衛門であったようです。

 

同書によれば、兵衛、衛門はもともと朝廷の衛士を示す官名で、

中世の日本人「自分は貴人の末孫で武士であった」との意識が高まり、

庶民も自由に~兵衛、~衛門を名乗り始めた。

 

室町時代にはこの官名の‘私的使用’がすっかり定着。

かくして日本中が~兵衛、~衛門の名であふれたようです。

 

 

ところが明治3年、時の政府はこの官名を‘通称’として称することを

禁じた通達を出します。

~兵衛、~衛門は本来、律令制度に由来した官命ですから、これを勝手に

名乗る事はケシカランという訳です。

 

この政府による官名僭称の禁止措置は庶民の間に大きな混乱を招きました。

 

武士は~兵衛、~衛門を通称(とおり名)として用いていました。

他に実名があったのです。

例えば、黒田官兵衛であれば、官兵衛は通称で、孝高が実名(諱)です。

この通称に官名を使うことが禁止されるということです。

 

一方で庶民は通称しか持ちませんでしたので、この政府の布告は

大迷惑でした。

~兵衛、~衛門という名は、苗字の公称が出来ず(庶民にも苗字は

ありましたが、自由に公称することはできませんでした)、

また実名を持たなかった庶民にとってとても大事な名であったのです。

 

ただしこの政府の禁止通告は充分な効果をあげられなかったようです。

実勢に沿わない規制はなかなか効果をあげられないようです。

~兵衛、~衛門の名は無事に残りました。

 

 軍師 官兵衛NHK.jpg

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」

 

以下ちょっと私たちが苗字と名前を持つまでに触れます。

 

同年(明治3年)、政府は庶民が苗字を持つことを許容しています。

 

明治5年、政府はすべての国民が苗字、名前を勝手に改めることを禁止

します。

*それまで人々はこの世に生をうけてから死ぬまでの、人生の折節に

何度も名前を変えてきました。幼名や隠居名も用いました。

 

また同年、政府は通称と実名を持つ者に対し、どちらか一方を選択するよう

求めます。複名を禁じて、一名主義を採用します。

*西郷さんは通称の吉之助ではなく、実名の隆盛を選択。「板垣死すとも

自由は死なず」で有名な板垣退助は通称を選択(実名は正形)します。

 

明治8年にはすべての国民が苗字を公称することと定められます。

背景には、近代的な中央集権国家を目指す政府が、全国民を戸によって掌握

したいとする要請もありました。

当時苗字を持たなかった庶民があわてて苗字を作ったという話がよく聞かれ

ますが、実際あまりそういったことはなかったようです。

お寺の住職や庄屋さんに新たに苗字を決めてもらったなどの例も確かに

あるようですが、庶民といえども多くは苗字を持っていましたので新苗字?

がどんどん作られたわけではないようです。

 

こうして私たちは苗字と名前を持つことになりました。

 

名前には流行があります。

 

また‘~兵衛さん系統’の名前が日本中にあふれるかもしれませんね。

お読みいただき有難うございました。

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「光りあるところに影がある」超人的忍者は存在したのか? [戦国]

 

 白土三平作 サスケ.png

 白木三平作 サスケ

 

漆黒の闇を疾風の如く駆け抜け、手裏剣を打ち、高い塀も難なく

飛び越える。

その姿を追えば、煙の如く姿を消す。

 

映画アニメの世界で活躍する超人的な忍者。

はたして実在したのでしょうか?

 

以下順に考えてみました。

 

*戦国の世 時代は忍者を必要とした

 

戦国時代、武将たちが繰り広げた合戦は戦う前にすでに勝負が

決していたことが多かったようです。

 

戦国武将たちは戦いにあたって、敵側に内通者を作る(内通工作)、

意図的な噂を流し敵方将兵を仲間割れさせる(離間策)といった

謀略を仕掛ける。

事前の謀略戦が合戦の勝敗を決定づけたと言えるようです。

 

またいざ合戦となれば、闇夜に紛れて敵方を奇襲するといったゲリラ戦

や、敵陣営に放火し後方を混乱させることも有効な手段でした。

 

こうした謀略戦やゲリラ戦には当然その実行者が必要となります。

高度な専門能力を備えた実行者が必要となるのです。

 

例えば、

戦国武将の領国は現代と比べずっと閉鎖的な社会でしたから、敵方に

怪しまれずに敵国情勢を掴み、何らかのネットワークを使って収集した

情報を味方に伝達するといった 謀略戦には欠くこのできない諜報活動

の実行も決して容易ではなかったはずです。

 

*忍者の持つ技術 化学知識と心理術

 

磯田道史氏著「歴史の楽しみ方」は忍者を‘化学者としての忍者’

として取り上げており興味深いです。

古文書から毒薬や生物兵器に通じた忍者の姿が浮かび上がる。

戦国、徳川期初期に多く事例が残る‘邪魔者’の不審な死の真相には

毒物を自在に扱う忍者の関与があったかもしれない。

 

 

‘飛び加藤’の異名を持つ戦国の忍者、加藤段蔵にまつわる逸話。

越後の上杉謙信に仕官先を求めた加藤段蔵は春日山城の城下町で派手

パフォーマンスをする。

大木に繋がれた一匹の大きな黒牛を指さした段蔵は、大勢の群集に

向かい大声で「この大牛を俺が飲み込んでみせよう」と言い放った。

段蔵は大きな黒い布を自分の頭と大牛の頭にかぶせた。

かぶせられた黒い布の中で、大牛の頭が確かに飲み込まれ、

やがて大牛の腹が、足が、そして最後には尻尾までが飲み込まれ、

大牛の姿が消えた。

 

もう一人、豊臣秀吉を恐怖させた果心居士の話。

果心居士は秀吉に請われ妖術を披露する。

側近を遠ざけてひとり部屋に残る秀吉。

秀吉は果心居士の使う妖術を待った。

やがて部屋が闇に包まれ、1人の若い女性が現れる。

むかし戦場で秀吉が犯し、殺した女性だった。

決して忘れることの出来ない過去の自分の過ち。

「もうよい!やめんか!」、恐怖に駆られ秀吉が叫ぶ。

秀吉の叫び声に駆け付けた側近に向かい、秀吉は果心居士の

磔刑を命じる。

磔柱に縛られた果心居士は、処刑の寸前に一匹のネズミに姿を変え、

消え去った。

 

人間心理に通じ、思い込みや錯覚を巧みに利用した妖術を操る忍者。

ハンカチーフから飛び出す鳩、剣で串刺しにされながら傷ひとつ

ない美女、幾重にも鉄鎖が巻かれた木箱からの脱出などスペクタクル

な現代のマジックショーにも決して劣らない忍者の妖術。

忍者の使う妖術を目撃した当時の人々の驚きはいかほどのものか。

人々の驚きは逸話となり語り伝えられます。

逸話の中に真実はあったと考えたい。

 

*忍者の身体能力

 

北斗神拳の伝承者ケンシロウ氏は「普通、人間は潜在能力の30%のみ

使えるが、北斗神拳は転龍呼吸法により残り70%の能力も発揮できる」

と語る。

 

MIZUNO社のWEBマガジンに「心理的限界を超える火事場の

馬鹿力の秘密」という興味深いコラムを見つけました。

それによれば、人間の脳は筋肉や骨の損傷を防ぐため、本来使える力

を抑制してしまう安全装置がかけられているらしいです。

このため通常、人間はこの安全装置により自分の意識のなかで限界と

思っているところまでしか力を発揮できない。これを心理的限界と

呼ぶそうです。

しかしこの安全装置が外れたとき、心理的限界を超えて筋肉が本来

持っている力(生理的限界と呼ぶそうです)を人間は使うことができる。

生理的限界のおよそ70%が心理的限界となるようです。

 

さすがに北斗神拳と比べると少し迫力不足になりますが、忍者はこの

心理的限界を超えた能力を発揮できたのではないか。

 

この世に生を受けた時から忍者になることを宿命づけられている者たち。

幼少より閉ざされた生活環境のなか、ただひたすら技を磨く彼ら。

常人が持つこの‘臆病な安全装置’なぞやすやすと

忍者は超えたに違いない。

 

 

戦国の世の中、忍者が縦横に働く場が用意されていた。

彼らは化学的技術を持ち、人間心理に通じ、巧みな妖術を操る。

その身体能力は優に普通の人間の限界を超えた力を発揮した。

 

超人的な能力を持つ忍者たちは実在したと考えたい。

 

戦国武将たちが演じた華々しい国盗り物語の裏面に確かに彼らは存在した

のではないでしょうか。

 

 

「光あるところに影がある。まこと栄光の陰に数知れぬ忍者の姿があった。

サスケ、お前を斬る!」

忍者アニメの傑作「サスケ」オープニングより。

 

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か弱い姫君? [戦国]

 

「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝事(かつこと)が本にて候事」

朝倉氏3代に仕えた猛将朝倉宗滴の残した家訓「朝倉宗滴話記」より。

 

犬とも、畜生とも罵るがよい。(どんな手段を取ろうとも)武者は

勝たねばならないのだ!

凄まじいまでの勝利への執念渦巻く戦国時代。

 

厳しい戦国の世にあって、自国の領地を守り、拡大していくために

政略結婚はごく普通におこなわれました。

あるいは結婚そのものが政略的でした。

 

初恋の人への思いを隠し、父の命ずるままに他国に嫁ぐ姫君。

悲しき運命に翻弄される薄幸の姫君。

 

大河ドラマでも涙を禁じ得ない場面となります。

 

しかし戦国の女性はそれほど‘やわ’ではなかったようです。

 

その美貌から戦国に咲いた花ともうたわれたお市の方が、兄である

織田信長の政略により浅井長政のもとに嫁いだのは

永禄七年(1564年)。

その3年後、信長は浅井氏と関係の深い越前の朝倉義景の討伐を企てる。

浅井長政は信長ではなく朝倉との同盟を選択。

信長は越前に侵攻、この時近江の浅井が信長軍の退路を断てば信長軍は

もはや袋の鼠となり壊滅する危機となった。

兄信長の危機を察したお市の方は信長に小豆の入った袋を急ぎ送った。

小豆袋はその両端を細縄で固く縛られていた。

小豆袋は信長が袋の鼠になるというお市の方が送った警告であった。

警告に気づいた信長は間一髪のところで危機を脱することができた。

 

 

美濃の斎藤道三の娘であり、信長の正室となった濃姫の話です。

信長に嫁いでほどなくして、濃姫は信長の奇妙な行動に気づいた。

信長が夜ごと寝床を抜け出してどこともなく出ていく。

不審に思った濃姫が信長に問いただすと、信長は「すでに数名の斎藤家

重臣がこちらに内通している。彼らは道三を殺し、狼煙をあげると

約束している。それで毎夜高台に登り狼煙があがるのを待っているのだ」

と打ち明けた。

信長の話を聞いた濃姫は密かに密書を父道三に送る。

「父上、数名の家臣が夫信長に内通、父の命を狙っています!」

密書を読んだ道三は激怒、密書にあった内通者を即座に殺してしまった。

しかしこれは斎藤家の弱体化を狙った信長の謀略であった。

 

この2つの逸話(事実であったか正確にはわかりませんが)は当時の

姫君の意外な逞しさを物語っています。

 

姫君たちは決してただ不幸な運命に弄ばれていただけではないようです。

 

彼女たちも欲望渦巻く戦国の世にあって、何よりも実家を守るため懸命

生きることを優先した。

 

‘タフ’な女たちです。

 

タフガールが相手となれば、男たちの接し方も現代とは

ちょっと違う?ようです。

戦国の時代から、江戸初期にかけては女性に対して総じて冷淡な態度を

取ることが武士の心得でした。

 

氏家幹人氏著「武士マニュアル」に戦国時代の高名な剣客、塚原卜伝

が詠んだ武士の心得100首を集めた「卜伝百首」が紹介されています。

 

その中に女性への接し方で守るべき3つの教えがあります。

 

*武士は女に染まぬ心もて これぞ誉れの教えなりける

*武士の稚児や女に戯れて 心おくれぬ事はあらじな

 

3つめがちょっと凄いです。

 

*武士の月代(さかやき)を剃る剃刀を かりにも女の手にも取らすな

 

 

他の文献でも「人の心は変わりやすく信じがたいが、とりわけ女には

心を許せない」「7人の子をなすほど長く連れ添った女でも心許すな」

などなど・・・警句が散見されます。

 

マッチョな武士社会が生んだ女性不信でしょうか、

あるいはタフな女性たちに対する武士の自衛策だったのでしょうか?

 

 お市の方.jpg

 お市の方肖像画

 

お読みいただき有難うございます。

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戦国の合戦! [戦国]

白刃で敵兵を斬り倒す馬上の武将、土煙舞い上がる中でつばぜり合い

繰り広げる雑兵たち!

刀を振るう戦国武士たちの合戦シーンは大河ドラマの見せ場です。

 

しかし合戦の場にあって刀は主要な武器ではありません。

主要な武器は、弓や鉄砲であり、あるいは礫(投石)だったようです。

飛び道具ですね。

 

敵兵と近接して戦う(白兵戦)時も、用いられた武器は槍、なぎなた

といった長柄のもの。

合戦において、刀はこうした長柄の武器を失ったときに使う補助的な

武器として使用されたようです。

刀身の短い刀より長い柄を備えた槍、なぎなたのほうが遠い間合いで

相手を攻められますので当然有利でしょう。

 

戦国時代、槍は徐々に長大化します。

当初3メートル程度の長さであった槍ですが、中には6メートルを

超えるものも登場します。

織田信長が考案したとされる3間半(6.4メートル)の長槍は有名です。

 

信長.png

 織田信長肖像画

 

この長大な槍を持つ兵士が密集して並び、槍の穂先を揃える。

とても長い槍ですから、槍で相手の兵士を突くのではなく槍を

しならせ相手を叩きます。

敵味方で猛烈に叩きあう集団戦です。

敵の一部が崩れたとみれば、そこに突入し敵陣を混乱させます。

 

この長槍の集団を叩くためには鉄砲の投入が有効でした。

 

集団で鉄砲や弓を射かけて敵陣を崩す。

武士たちがその後個人戦に移るときも長柄の武器を

刀に優先して使用する。

刀の武器としての出番はあまりなかったようです。

 

鈴木眞哉氏著「謎解き日本合戦史」によれば、応仁の乱(1467年)

から島原の乱(1637年)までの合戦における戦傷者の戦傷の内訳では、

およそ75%が鉄砲、弓あるいは投石によるもの。

刀による戦傷は7%程度しかありません。

ちなみに鉄砲と槍による戦傷はそれぞれ20%と同程度になるそうです。

 

では刀はあくまで長柄の武器を失ったときに使う補助的な武器

としての役割しか無かったのでしょうか。

 

戦国武士は合戦場で手柄をあげるため戦いますが、その手柄を証明

するため、敵の首を取ることを目的とします。

刀は傷を負った敵の首を取るための、いわば切断の道具となりました。

 

打ち取った敵の首を持ち帰り、その首を味方の大将はじめ重鎮等が

検分します。

戦功の査定です。

当然その首の格?が高ければ査定ポイントも上がります。

 

「おあむ物語」という史料があります。

石田三成の家臣の娘が関ヶ原の戦いの体験を後の世に語った体験を

した筆談集で、壮絶な戦国の情景が語られています。

落城間際の大垣城でまだ10代であったその娘は、味方の兵が

持ち帰った敵の首に化粧を施します。

首を並べ、その歯にお歯黒を施す。

お歯黒がされた歯は高貴な身分を意味します。

首の格が上がる訳です。

 

以上、ちょっとダラダラと戦国の合戦についてでした。

最後までお読み頂きましてどうも有難うございました。


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