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幕末日本の銭湯にびっくりする外国人 [幕末 江戸]

幕末、明治初年に日本を訪れた外国人は、日本の風俗、自然そして

とりわけ日本人の資質について概ね好意的な印象を抱いたようだ。

 

礼儀正しく、朗らかであり、そして慎み深く・・・

 

だが、ある風景を目にした彼らは一様に驚愕している。

男女混浴の風景です。

 

混浴 ハイネ.jpg

日本遠征記より 下田の共同浴場 ハイネ画

 

嘉永六年(1853年)黒船を率いて浦賀に来航したペリーは、帰国後著した

「日本遠征記」に 「町内には男女混浴の共同浴場があり、男女とも

赤裸々な裸体を何とも思わず、お互い入り乱れて混浴している有り様を

見ていると、この町の住民の道徳心に疑いを感ぜざるを得ない」と

記している。

 

安政三年(1856年)に来日、米国の初代駐日公使となったハリスは、

「何事についても間違いのない日本人が、何故このような品位に欠けた

ことをするのか理解に苦しむ」との印象を示した。

 

安政六年(1859年)に英国の初代駐日総領事に任命され訪日した

オールコックは、「日本の気候に根差した慣習の問題であり、男女が

一つ湯に浸りながらするお喋りは男女両性の権利と平等を認めている点で

評価できる」と分析力に富んだ?真面目なコメントを残している。

 

明治9年に来日し、大森貝塚を発見したことで名高いモースは、日光の

湯元温泉で同僚と温泉の温度を計測中に前日出会ったとても慎み深い2人の

娘さんが裸で風呂入っているのを発見。

2人の娘さんは動揺するモースに気が付くが、朗らかに「オハヨー」と

挨拶する。

 

この経験からモースは「態度は静かであり、気質も愛らしい日本人で

ありながら、彼らは裸体が不作法であるとは考えない。~ 

一方で我々外国人が彼らの国(日本)にないワルツのような踊りをしたり、

公衆の面前でキスをすることは、日本人に我々を不作法と思わせるだろう」

と記し混浴への理解を示している。

 

混浴の習俗はよほど外国人には衝撃的であったようで、混浴風呂の発見

あるいは体験の記述は実に多く残されています。

 

非難する人、理解を示す人、あるいは礼賛?する人

彼ら外国人が残した混浴風呂についての印象は様々です。

 

ところで世は文明開化の時代、国家の近代化を急ぐ明治政府は外国人に

日本人の道徳性について多少とも疑念を抱かせるこの混浴風呂という悪習!

を断固廃止するため矢継ぎ早に混浴(男女入り込み湯)の

禁止令を出します。

 

しかし政府の思惑通りには、混浴廃止の完全実施はなかなか進まなかった

ようです。

入浴客自身が混浴をさほど不都合とは思っていなかったことに加え、

男女別湯への施設改修に伴う費用の問題も障壁となったようです。

 

東京の場合ですと、明治21年に銀座に湯屋改良請負会社が設立されて以降

急速に近代的で‘道徳的’な銭湯が増え、混浴風呂(男女入り込み湯)は

ようやく姿を消していったそうです。


最近では外国人観光客の間で、日本の銭湯もおおいに注目を集めている

そうで、幕末期に外国人を驚倒させた銭湯風呂も今では日本のおもてなしと

なりました。

 

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辻斬り と かぶき者 [幕末 江戸]

「月のない星明りのきらめく薄暗い夜で、提灯の火で足元をてらして

歩くと、天王橋の所で、一人がヒェッと脅えたので、提灯を差付ると、

そこに年寄った男が袈裟懸け(けさがけ)に斬られて、真逆様に打倒れ、

まだ斬り立ての・・・」

 

江戸幕末を生きた古老の回顧談を集めた篠田鉱造氏著「幕末百話」に

江戸文久元治の頃の辻斬りの話がありました。

 

辻斬りとは? 

大辞林をひくと「武士が刀の切れ味を試し、また武術を磨くために、夜間

路上で行きずりの人を斬ったこと。また、斬る人。江戸初期横行し、幕府は

禁令を出して引き回しの上死罪とした。」とあります。

 

辻斬りは世情騒乱の幕末期にも横行していますが、大辞林にもあるように未だ

戦国の気風が残る江戸初期において多く発生したようです。

 

徳川第3代将軍の家光(16041651)や水戸黄門として知られる

徳川光圀(16281701)にも辻斬りの逸話があります。

話の真偽のほどは定かではありませんが、当時の殺伐とした空気を物語る

証左にはなりましょう。

 

徳川の天下統一が進み、大坂夏の陣を最後に内乱は終息しますが、人々が

平和を確信するのはようやく徳川第4代将軍家綱の政権樹立後と言われ

ています。

 

しかし戦時体制が凍結され、到来する泰平の世に馴染まない無頼の集団が

いました。

 

かぶき者です。

 

江戸初期に活躍?したかぶき者たちを一括りにしてその性格をしるすのは

難しいと思えますが、無頼の集団であることは確かでしょう。

かぶき者は「傾く」という言葉から派生しており、文字通り正しく安定

しているもの(秩序)にたいして傾いている者たちであり、旧来の武辺の

価値観を転換できず、平和な社会秩序に抗して反体制的な姿勢を良しとした

集団です。

徒党を組む彼らの服装や髪形も尋常ではなく(かぶき者たちのかぶいた格好

は歌舞伎の語源にもなります)、異様に長い刀を差し、しばしば乱暴狼藉を

働き辻斬り、放火や犬殺し事件も引き起こします。

 

かぶき者たちが跋扈し、辻斬りが横行する江戸初期の風景は、時代劇や

江戸グルメ本でお馴染みの江戸後期の印象とは随分と異なるようです。

 

ひとつ当時の人々の習慣?を記述したちょっとショッキングな話です。

 

大道寺友山(16391730)という兵法家が著した「落穂集」は

明暦の大火(1657年)以前の江戸の町には犬が少なかったと記されています。

その理由として武家や町方の下々の者たちにとって犬より上等な食べ物は

無いため、特に冬場ともなれば犬を見境なく(野良犬、飼い犬を問わず)

捕らえて食べてしまったためとあります。

 

綱吉.jpg

 徳川綱吉

 

犬公方こと徳川幕府第5代将軍綱吉(16461709)の発布した

生類憐みの令は天下の悪法として名高い。

跡継ぎに恵まれなかった綱吉が母の桂昌院が寵愛する僧の隆光の

「子に恵まれないのは前世の殺生の報いである。生類を憐れめ。

綱吉は戌年生まれであるから、特に犬は大事にするように.」との進言を

取り入れ制定されたのが生類憐みの令であるとよく説明されてきました。

 

はるか昔、学校でもそのように教わった記憶があります。

 

ある浪人は襲いかかった犬を斬ったため死罪。

頬にとまった蚊を叩いたある小姓は流罪。

・・・

 

現在はこの生類憐みの令については、戦国以来の未だ払底されない殺伐たる

人心の転換をはかったものとされ、同じく綱吉が発布した捨て子禁止令、

病人保護令などと合わせたより包括的な政策体系として見直されたようです。

 

辻斬りやかぶき者の存在を思えば、この天下の悪法の見直しも納得したい

感じを受けます。

 

最後までお読み下さり有難うございます。

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新撰組 沖田総司と黒猫の話 [幕末 江戸]

「幕末未来人」という昭和52年に放映された連続ドラマをNHKの

オンデマンドで見ました。

学校帰りの2人の高校生が横須賀の戦艦三笠の艦内を見学していると、

突然不思議な現象が起きて彼らは幕末にタイムスリップ

 

2人の若者は幕末の日々を、持っていた日本史年表を頼りに悪戦苦闘

しながら過ごします。

しかし2人が遭遇する幕末の出来事と日本史年表が記述する史実との間で

徐々に歪みが生じていく。

 

薩英戦争が史実より3日前に勃発。

長州の桂小五郎が池田屋で命を落とす。

・・・

 

新撰組の沖田総司も登場する。

沖田総司は若き蟹江敬三が演じる水戸浪士と決闘する。

勝負は沖田総司有利の展開となるが、急に激しく咳込んだところを

蟹江浪士に斬られてしまう。

 

まさかの展開!

 

 新撰組旗.jpg

 

沖田総司の剣は天才的であったらしい。

 

土方歳三や井上源三郎といった試衛館(天然理心流道場)生え抜き、

千葉周作の玄武館で北辰一刀流の目録をもらった藤堂平助や同じ千葉の

免許をとった山南敬助などもこの道場に来ているが、竹刀をもっては、

みんな沖田に子ども扱いにされた。(永倉新八遺談)

 

玄治元年(1864年)の6月5日、

新撰組がその名を天下に轟かす三条小橋旅館池田屋惣右衛門方斬り込みの

事件が起きた。

池田屋に斬り込んだ沖田総司は戦闘中に昏倒し戦線を離脱する。

昏倒の理由について、一般には持病の肺結核の再発によるとされている

ようです。

新撰組を描いたドラマでも、戦闘中に沖田総司が喀血し倒れ込むシーンが

多く登場しています。

 

病は快方に向かわず、幕府の命運を決した鳥羽伏見の戦いに参戦

できなかった沖田総司は慶応4年(1868年)の1月に江戸に帰還し、

新撰組ともかかわりの深い幕医松本良順医学所で治療を受ける。

 

同年2月末には千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅の離れに移り療養した

とされます。

療養中の沖田総司を気遣った近藤勇が離れに手を加えるための手間賃を

大工さん支払った記録が残っています。

 

死期のせまった沖田総司の描写に有名な黒猫の話が伝えられています。

 

ある日一匹の黒猫が離れの庭先にある梅の木の根元に現れる。

総司は起き上がりその黒猫を斬ろうとするが、斬れない。

翌日また庭先に来たその黒猫を斬ろうとするが、どうしても斬りつける

ことが出来ない。

その翌日総司は息を引き取る。

 

沖田総司の最期の言葉は、介抱する老婆にかけられた

「婆さん、あの黒猫は今日も来ているだろうな」

であった。

 

沖田総司が患った肺結核は、江戸時代には労咳と呼ばれており多くの人々

を苦しめた。

病の原因もわからず、当然その処方策も持たなかった。

 

酒井シヅ氏監修「江戸の医学」には、結核について無力であった当時の

江戸の人々が神頼みや願掛けに救いを求め、結核の予防や治癒に関する

俗信や迷信の類が流行したと記述されています。

 

黒猫を飼っていると労咳が治る。

 

この迷信を裏付ける江戸川柳も残っています。

 

青白い娘のそばに黒い猫

 

当時黒猫の存在は、そのそばにいる人が労咳を患っていたことを暗示

していたようです。

 

療養する沖田総司の前に現れたと伝わる黒猫。

あるいは、総司の病の回復を願った近藤勇が連れてきた黒猫なのか

とも思えます。

 

 

最後までお読み下さり有難うございます。

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初鰹の話 ちょっと時期はずれですが [幕末 江戸]

 鰹料理.jpg

 

初物、ことに初鰹に寄せた江戸の人々の関心は熱狂的なものでした。

 

‘女房を質に入れても食べたい’初鰹は正月ごろに鹿児島沖に到着し、

その後黒潮に乗り初夏相模沖に到達します。

 

鎌倉小田原あたりの漁師が採った初鰹は東京湾入り口で特別な高速船

に積み替えられ、江戸日本橋の魚河岸に運び込まれます。

 

冷凍設備のなかった時代、鮮度の落ちやすい生の魚を運ぶため

「押送船オシオクリブネ」

という当時の最高速の船で運ばれたのです。

この押送船、細長い船体に片側4挺ずつの櫓があり、8人の船頭さんが

一斉に漕ぐ高速船で、魚荷専用のクール宅急便のような存在でした。

 

最初に入荷されたものが正式には初鰹ですが、これはとても庶民が口に

出来るものではありません。

まず将軍家に献上され、残りを超高級料理茶屋や限られたセレブ

(人気歌舞伎スターなど)が買い付けます。

 

徐々に入荷量も増えてきますと、初夏の味覚初鰹の値も下がってきます。

 

ただ見栄っ張りで、初物好きの江戸庶民は誰よりも早く初鰹を食したい。

しかしながら当然値が張ります。

 

そんな江戸庶民の切実な心情を鮮やかに?表現した川柳を2つ

ご紹介します。

 

「初鰹人間わづかなぞと買ひ」

どうせ短い人生だ、思い切って買ってしまえ!

 

「初鰹まだ舞台から落ちられぬ」

清水の舞台から飛び降りる気持ちで買いたいが、決心がつかない!

 

このとっても高価な初鰹、今ならさしずめマグロの大トロといった

ところでしょうが、山田順子氏著「江戸グルメ誕生」によれば、

脂肪の多いトロは当時‘猫またぎ’(猫ですら食べない)とも呼ばれ、

畑の肥料にされていたそうです。

トロの脂肪は江戸の人々の好みには合わなかったようです。

 

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江戸の渋谷スクランブル交差点 [幕末 江戸]

 

 登城風景.jpg

 

東京渋谷のスクランブル交差点。

まさに圧巻の景色が展開される場所です。

圧倒的な人の数、信号が青に変わり一斉に動き出す人、人、人・・・。

 

今や外国観光客にもすっかり有名になった東京の観光名所です。

 

江戸の観光名所をあげれば、浅草観音、神田明神、湯島天神・・・

こうした神社仏閣の他に、大都市江戸でなければ見られない

ものがあった。

大名たちの登城の様子です。

 

大名たちの登城日、江戸城城門(大手門、桜田門)前では

渋谷スクランブル交差点にも劣らない圧巻の風景が見られたはずです。

 

定例の登城日は月に3日あり、他に年始や節句などの式日

に江戸在府の大名たちがほぼ同時刻一斉に登城します。

 

江戸の観光客は時間前に道筋に出て、各々良い見物場所を確保し

大名たちの登城行列を楽しく見物します。

おらが国の殿さまの登城を運よく見られれば、素晴らしい土産話に

なったでしょう。

 

一方で登城する大名と家臣にとって登城日は苦労の多い一日となります。

 

大名の上屋敷は家格にもよりますが、大方江戸城に近接しています。

江戸城より徒歩数分の好立地なのですが、登城約束時刻(将軍への拝謁

予定時間)の2時間前には屋敷を出発します。

何といっても200に近い大名行列が同日ほぼ同時刻に登城するのです。

 

大名の行列はその家々に決められた格式があり、行列の人数も定まって

いました。

大きな藩の大名の行列ともなれば、行列の最後尾が屋敷の門をまだ

出ないうちに、先頭はすでに大手門に到着というようなことがあります。

 

また行列が道の往来を妨げるので、仮に100人の行列でも江戸城前の

道路を通る行列は、行列途中に道幅ほどの切れ目を2つほど作り、

そこに通行人を通す工夫がとられたため、行列はさらに長くなります。

 

自分より格上の大名の行列に運悪くぶつかれば、道を譲る

必要もあります。

 

どうしてもお城に到着するまでかなりの時間を要します。

 

そのためかなり早めの出発を余儀なくされたのです。

 

さて、無事に江戸城城門に到着しました。

殿さまは将軍様に拝謁のため城内に入りますが、家臣は城門前で殿さま

帰りを待ちます。

およそ23時間は待つことになります。

 

そこに門前で待つ家臣たちや観光客相手の商売人も集まり茶菓子などを

売って歩きます。

かくして江戸城門前はいよいよ人で賑わいました。

 

 

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江戸の旅行エージェント [幕末 江戸]

 

「最も往来が激しい東海道のような街道は、ヨーロッパのどんな

にぎやかな都会よりもさらににぎわっていることを読者の皆さんに

保証する。この国の人々が自ら好んで、あるいは必要に迫られて、

旅に出ることの頻繁さといったら、恐らくどの国の国民よりも勝って

いるだろう」

 

1690年に長崎蘭館の医員として来日したケンペルが「日本誌」の中で

記している。

 

江戸期、人々は続々と旅に出ます。

街道筋の宿泊施設の整備にともなって江戸中期から庶民の旅も活発に

なってきます。

旅人が日本国内を盛んに歩き回りはじめた背景には、

ある旅行エージェントの存在があったようです。

 

そのエージェントとは御師(おし)です。

 

(現在放映中の大河ドラマ「軍師 官兵衛」にも御師が登場します。

尾藤イサオさん演じる広峯神社の御師 伊吹善右衛門です。

竜雷太さん演じる黒田重隆が家伝の目薬を広峯神社の御師に託し、

御師がお札に添えて販売します。

眼病に効果てきめん?の黒田印の目薬は大ヒット商品となり、

黒田家発展の基盤をつくったと伝えられています。)

 

お伊勢参り.jpg

 お伊勢参り

 

御師は社寺の神官ですが、その信仰を広めるためにかなりの遠方まで

お札を配り祈祷をおこなって、信者を獲得し初穂を集めました。

 

御師はまた社寺への参詣の勧誘や参拝や宿泊の手配、案内も

おこないました。

御師は社寺の営業マンであり、添乗員でした。

 

御師の活躍もあり、遠く離れた地にある有名社寺への信仰集団(講)

江戸期には多く発展します。

有名な講には、伊勢講を筆頭に富士講、熊野講、大山講、金毘羅講や

日光講などがあります。

御師はそれぞれ講に所属する人(講員)の家をまわり、初穂を集め

たり参拝の勧誘をするわけです。

 

一生に一度は行きたいお伊勢参り。

 

お伊勢参りを案内してくれるのが神宮の御師(伊勢の場合はおしでは

なく‘おんし’と読むそうです)です。

 

御師は、参拝者の出迎えから道案内もしてくれますし、豪華な

宿泊施設贅沢な食事も提供してくれます。

帰りにはお土産まで頂戴し、まさに至れり尽くせりの扱いです。

 

講員はおよそひと月ほど(他所もゆっくり観光すればプラス5~10日)

の旅を終えてたくさんのお土産話を持って帰っていきます。

                                                                                                                     

「○○の国では○○に○○をかけて飯を食うんだよ、信じられね~」

「○○宿の○○って遊女は本当に情があって良かったな~」

「○○が凄いって評判だから見に行ったが、江戸の○○の勝ちだな」

 

本当に出来ることならまた行ってみたい旅ですが、

ちょっと無理な相談でしょう。

 

旅費が高額です。

旅は順番なのです。

 

旅費捻出のカギは講の相互扶助システムにあります。

講員は毎月少額のお金を積み立てます。

お金が貯まったところで厳正なくじを引き、くじに当たったものが

講員を代表してお参りに行けます。

すでにお参りに行ったものはくじを引けません。

次はお土産話を聞いて、目を輝かせる○○さんの番です。

 

 

遠方への旅へはそうそう行けなくとも、江戸の庶民はお弁当持参の

ワンデイトリップにはよく出かけたようです。

江戸は市街地の範囲が狭いため、歩いて行くことのできる風光明媚な

場所が多くあり、庶民は気楽な遊山を楽しみました。

日本橋から1時間かそこら歩けば郊外に出て、ちょっとしたピクニック

気分を味わえたでしょう。

旅ともなれば1日に30キロは歩く健脚ぶりを発揮する人々ですから、

朝ごはんを食べてから家を出て、郊外で遊山を楽しんでまだ明るい

うちに帰宅することはじゅうぶん可能だったわけですね。

 

 

*お読み頂き有難うございます。

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大岡越前と江戸のお白洲「逮捕されるとどうなるか」 [幕末 江戸]

 

「その方重々不届きにつき市中引き回しの上、打ち首獄門に処する!」

厳しい表情を浮かべ判決を申し渡す大岡越前。

がっくりと肩を落とす悪商人の○○屋。

 

ご存知、大岡越前。

 

大岡越前守忠相(ただすけ)は、延宝5年(1677年)に2700石の

旗本の家に生まれ、36歳で伊勢の国の山田奉行に着任。その後普請奉行

を務め、吉宗(暴れん坊将軍です)が徳川第8代将軍職を継ぐと

江戸町奉行に累進、以後19年の長期にわたり町奉行職を務めたのち

寺社奉行となり、ついには三河国西大平(現在の岡崎市)に陣屋を置く

1万石の大名に登りつめます。

 

出世街道を邁進したエリート中のエリート官僚です。

 

町奉行職在任中は吉宗が進めた享保の改革をよく支え、その行政手腕が

高く評価されています。

 

大岡越前守のおこなった公正で人情味ある裁き(大岡裁き)は

時代劇でもシリーズ化され人気です。

 

大岡裁きには多くの逸話が残されていますが、

特に有名なのは「子争い」の名裁きでしょう。

 

2人の女が「この子は私の子どもです!」と互いに譲らず、

実母であることを主張します。

大岡越前はこの2人の女にそれぞれ子どもの片方の手を

掴むよう命じます。

 

「お前は右の手を、そっちの女は左の手を掴め。互いに子どもの

腕を引っ張り勝った方が実母である」

2人の女が双方から手を引っ張りますから子どもは痛がって泣きます。

一方の女が泣く子を憐れみついに手を放します。

 

 大岡越前がそれを見て審判を下します。

「子をおもい思わず手を放したおまえこそ実の母親だ」

 

 

もうひとつちょっといい話(?)

 

不貞を働いた男女。

「自分に非は無い。誘ったのは女の方だ!」

男は必死の釈明をします。

男の釈明に今一つ納得のいかない大岡越前。

女がちょっとご年配だったようです。

 

困った大岡越前は自分の母親に

「はたして女性の性欲は幾つになるまであるものでしょうか?」

と問いかけます。

問われた母親は静かに火鉢の灰を箸でかき回した。

 

灰になるまで

 

母より解答を得た大岡越前、この不貞事件を見事に

解決したのであります。

 

これにて一件落着!

 

 大岡越前.png

 TBS時代劇 大岡越前

 

 

ちょっと江戸のお裁き(刑事事件)について。

 

刑事裁判の手続きを吟味筋と言います。

吟味筋の一連の手続きは、犯罪捜査・事実の審理・刑罰の決定・

判決の申渡し・刑の執行です。

現在と大筋変わりません。

 

犯罪捜査の主力は同心と同心が私的に雇う目明し(岡引)です。

*同心、目明しについてはよろしければ

「必殺 中村主水の表家業と目明しについて」をお読みくださいね。

 

刑事事件が発生して容疑者が特定されると、同心・目明しが被疑者を

捕縛して、自身番屋に連行します。

時代劇で○○親分が「おい、お前ちょっと番屋まで来い」と言って

連れ込む小屋です。

ここで取り調べが行われ、有罪の嫌疑が濃厚となれば被疑者は

町奉行所送致されます。

 

ここより町奉行所に送られた被疑者の吟味が始まります。

取り調べ(吟味)の最初の席には町奉行が出ますが、

あとは下役に任せます。

被疑者には未決拘留の処置がとられ、牢屋に入ります。

「吟味中は入牢を申付ける!」

 

江戸の牢屋は小伝馬町にありまして、全国最大規模です。

封建の世ですから、身分によって牢屋の部屋の格式?も異なります。

江戸の刑罰には禁固刑、懲役刑は基本ありませんので、

牢屋はあくまで未決拘禁の場所で、刑罰としての入牢はありません。

牢屋は現代で言えば刑務所ではなく拘置所です。

 

牢内の待遇はかなりひどいものであったようです。

多くの牢内病死者が記録されています。

 

さて、その後の取り調べですが、これは町奉行所の吟味方の与力が

行います。

取り調べは事件の関係者一同の自白を得ることに主眼が置かれます。

江戸時代、自白は何物にも勝る確定証拠となりますので、

自白を得るための拷問も行われました。

ただ、自白を得るためにむやみに拷問に頼るようでは、吟味方の役人

しても自分の取り調べ下手を宣伝してしまうようなものですから、

時代劇でしばしば見られる‘気分しだいの拷問’は

なかったものと思います。

 

吟味方与力たるもの「落としの山さん」の称号

欲しかったはずでしょう。

 

自白が得られれば、供述書(口書くちがき)が作成されます。

その後供述書の最終確認を奉行が出座して行います。

お白洲での審問です。

関係者一同の前で供述書が読み上げられ、供述内容確認の捺印(爪印)

がされます。

犯罪事実がこれにより正式に確定されます。

 

以後、この供述書をもとに書面審査で刑罰が決定されます。

奉行が判決を考えるのですが、奉行が自分一人の権限内で判決を

言い渡せる範囲は中追放という刑罰までです。

重追放以上に重い刑罰を言い渡すには老中(現代の大臣に相当)の許可

必要でした。

また老中といえども遠島や死刑の判決を決定するには将軍の許可を必要

としました。

大岡越前も金さんも勝手に罪人に死刑宣告することは

できなかったわけです。

刑罰の決定は法典、過去の判例をもとにかなり厳密に行われます。

 

判決が決まると、その申し渡しがされます。

判決申し渡しは、奉行所のお白洲で奉行が口頭で下します。

これで落着です。

上訴の制度はありませんでした。

また死刑については奉行所ではなく、牢屋内で検使与力が申し渡しを

おこない即座に執行されました。

 

石井良助氏著「江戸の刑罰」より江戸の主な刑罰をみると、

以下のように分類されます。

 

生命刑(磔、獄門、火罪、死罪、下手人・・・)

身体刑(剃髪、たたき)

自由刑(遠島、追放、閉門、晒・・・)

財産刑(闕所、過料)

身分刑(奴、一宗構・・・)

栄誉刑(役儀取上、叱)

 

冒頭の「市中引き回しの上、打ち首獄門に処する!」に戻ります。

 

引き回しは死罪以上の判決を受けた罪人に課された付加刑で、

その行程(引き回しのルート)も決められていました。

獄門は打ち首となったあと、死体は試し切り(刀剣の切れ味を試す、

その専門職として山田浅右衛門が時代劇などでも有名)とされ、

刎ねられた首を3日間さらす刑罰です。

 

現代からすれば考えられない過酷な刑罰だったのです。

 

人柄温厚な大岡越前も時として峻厳な判決を下したのであります。

新撰組の稽古と斬り合う侍 [幕末 江戸]

  

新撰組の近藤勇は数えで28歳の時に天然理心流4代目を襲名、

天然理心流試衛館の若き道場主となった。

近藤勇は道場に通う門人たちにたいし、「剣とは技よりも気組みである」

と常々教えたそうです。

「剣の勝負は気合のおしあいで決する。」

まさに実戦の剣に優れた新撰組の局長に相応しい言葉でしょう。

 

同じく新撰組の土方歳三も「斬りあいは腕でやるものではない、相手に

ぶつかっていくものだ」との言葉を残しています。

 

新撰組の稽古は常に実戦を意識したもので、例えば室内で向き合い

酒を飲んで談笑しているとき、相手がいきなり刀で斬りかかってくる

といった状況設定をして、その対応をはかるような稽古もおこなわれて

いたようです。

また彼らは稽古の際、竹刀や木刀を使わずに主に真剣を刃引きした刀を

用いたそうです。

 

近藤勇.jpg

近藤勇

 

刀で相手を斬るためには、当然ですが自分の刀が相手に届く位置まで

近づかねばなりません。

そして当然のことながら、こちらの刀が相手に届くということは、相手

刀も自分に届くということです。

 

幕末の侍たちは真剣で斬りあう時の緊張感、恐怖感をどう感じたので

しょうか。

 

綱淵謙錠著「幕末風塵録」という本に、侍の斬りあいの目撃談が

あります。

こちらの話は現代人にもリアル感があり興味深いのでご紹介します。

 

慶応4年(1868年)の戊辰戦争。

現在の福島県白河で会津軍と新政府軍が戦ったとき、目撃者となる

人物は戦禍を逃れるため避難中でした。

その避難中、偶然に2人の侍の斬りあいを目撃することになります。

 

「1人は会津の侍、もう1人は新政府軍(官軍)の方でした。わしは

恐ろしくて、震えながら崖の上の木立の間からそうっと見ていました。

彼らはお互い名のりました。30歳前後の侍でした。刀を抜き合うと、

シャリーンと刀の先が触れ合いました。それと同時に後ろに2、3歩

退きました。退くと両人は狙い合うようにして動きません。

そしてまた2,3歩ズズッズズッと前へ進み出ると刀の先がシャリーン

と触れ合います。すると2人の侍はまた後ろに数歩後退しました。

2人の侍はおたがい真っ青になり、肩をいからし動きません。

2人の荒々しい息づかいが20メートルほど離れた私の耳元にも

聞こえてきます。

どのくらいの時間が過ぎていったのか夢中で見ていた私には

わかりませんが、またシャリーンという音を聞いた時にどちらかの侍が

叫び声をあげました。

再び刀を打ち合う音がしばらく続き、やがて地響きがするように

2人の侍が共倒れするのを見て、私は思わず目をふさぎました」

 

幕末史に残る数々の事変は、この極度の緊張と恐怖の中で侍たちにより

展開されたのでしょう。

お読み頂き有難うございます。今年度もよろしくお願い致します。

 


侍のお正月 [幕末 江戸]

侍気分は明日、明後日 鎌倉で臨時出店します。

詳しくは侍気分HPをご覧ください。

 

千代田の正月.png 

 

江戸期、武家屋敷では暮れの28日の早朝に門飾りにとりかかった

そうです。

町人の気が早い輩は12月になるのを待ちかねて門松をたてたそうです。

 

門松は元来、年神様を家に迎え入れるための依り代で、江戸期の門松は

松の先を切らないで、地面からそのまま随分の高さのものが飾られて

いたようです。

中でも吉原遊郭に飾られた門松は立派で、空をつくような大きなものが

飾られたようです。

 

現在では、家の門に葉の無い竹を立て、根元に松を添えるのが普通ですね。

竹の先端部分は槍の切っ先のように斜めに鋭く切ってあるものが多いです。

文字通り竹槍のような塩梅です。

 

この竹の先端を鋭く斜めに切ったのは、徳川家康が武田信玄に大敗を

喫した

三方ヶ原の戦い(元亀31222日)のときの故事に由来する

そうです。

 

戦に大敗し、家康は命からがら浜松城に逃げ帰ります。

元亀4年元旦、武田方より家康のもとに元旦の祝いの句が届けられます。

 

句は「松枯れて 竹たぐいなきあしたかな」。

松は松平(徳川の別称)、竹は武田。

徳川は衰亡し、武田の将来はいよいよ盛んであるとの意味です。

 

読み上げられた句に消沈する家康家臣の中にあって、家康四天王のひとり

である酒井忠次が「武田め、何をうたうか!正しき句はこうだ!」と叫び、

一句読み上げます。

 

「松枯れで 武田首なきあしたかな」

 

徳川方の意気はこの句のおかげでおおいにあがったそうです。

やがて武田を滅ぼした徳川は、竹の上端を(首を刎ねたように)鋭く

切った門松を、開運のしるしとして飾ったそうです。

おめでたいというより、むしろ怖い由来ですね。

 

磯田通史「江戸の忘備録」に侍の正月について面白い話がありました

のでご紹介します。

 

同書で今の年賀状の習慣は、江戸の侍の風習に根ざしていると推察

されています。

 

江戸期の侍は年賀状を書く必要はありませんでした。

侍は区割りされた一角に住んでいたため、正月になれば年始回り

と称して手に名刺を持って同僚の屋敷を20軒程度挨拶して回った

そうです。

名前の右肩部分に「謹賀新年」と書き込んだ名刺をお互い同僚の

留守宅(主人は挨拶回りで不在)に置いて回るそうです。

 

商人などは名刺代わりの手ぬぐいや扇子を置いて回ったらしい。

明治の世となり、侍たちもそれぞればらばらになると、互いの家も

離れ、正月の名刺配りもできなくなったため、賀詞を添えた名刺

封筒に入れて送りつける。

 

明治6年に郵便はがきが誕生すると、はがきを名刺に見立て郵送

し始めます。

 

つまり年賀はがきのもとは年賀名刺であったとの推察でした。

 

江戸の後期にはすでに侍の間でもお年玉の習慣もあったようです。

お年玉といっても大人のお年玉です。

 

年賀の挨拶を受ける家では、年賀にきたお侍さんのお供の人たちに

お金を包んでわたしたそうです。

結構な出費だったでしょう。

 

侍は通常時代劇にあるように1人で外出しません。

年賀の挨拶も数名のお供を連れていきます。

 

例えば江戸町奉行所の与力(必殺シリーズ中村主水の上司である

中村様のポジション)が元日に奉行のところに年始の挨拶に行くときも、

大小の刀を差した若党1名の他に御用箱持ち1名、草履取り1名、

槍持ち1名、挟箱持ち1名など合わせて4,5名のお供を連れて

いきます。

 

 

お読み頂きまして有難うございます。

皆様、良い新年をお迎えください。


江戸のホテルに泊まれば [幕末 江戸]

 

*戦国グッズ・幕末グッズのお店 侍気分は2014年1月1日・2日の両日

鎌倉にて臨時出店致します。詳しくは侍気分HPをご覧ください。

 

 

 呼び込み.png

 

イザベラ・バードという英国の女性旅行家がいました。

彼女は1878年に日本の東北地方を旅し、「日本奥地紀行」という本を

著しました。

恐らく東北を旅した最初の西洋人女性でしょう。

 

彼女は旅の先々で人々の好奇の目を集めます。

彼女が秋田の神宮寺村(現大仙市)に宿泊した時の様子について、

同著にこんな記述があります。

「神宮寺の宿屋に宿泊すると、夜中に人の気配がして目が覚めた。

およそ40人もの男女が部屋の障子を取り払い、私の寝姿を黙って

見入っていた」

当時の人々の好奇心は理解できるのですが、これは少し怖すぎます。

 

障子を外せば容易に宿泊者のプライバシーを覗きこめてしまう宿屋。

これは宿泊者にとって不安なことです。

 

ちょっと江戸の宿屋の話です。

バードが旅した明治10年の宿屋、江戸期のそれと変わらぬはずです。

 

江戸時代、一般の旅人が泊る宿屋は旅籠(はたご)と呼ばれます。

街道筋の宿場には本陣と称する宿屋がありましたが、こちらは大名や

公家など身分の高い人が利用するものです。

江戸も18世紀後半にもなれば、「伊勢参り」や「金毘羅参り」に

代表される「信仰の旅」から(あるいはこれを口実とした)、

「娯楽の旅」が盛んとなり、有名寺社の周辺や街道筋にも多くの旅籠

が並びます。

 

旅籠の多くは飯盛り女と称する娼婦をおいており、これをおかない

旅籠は平旅籠と区別されています。

他、宿泊の目的により宿屋の種類もいくつかありますが、一般的な

旅籠についてちょっと書きます。

 

相部屋はかなり普通にあったようです。

客で混雑すれば相部屋になり、全くの赤の他人と枕を並べて寝る

ことになります。

もっとも冒頭のバードさんの旅行記にもあるように、間仕切り

ふすま・障子が利用され、壁がなかった旅籠ではプライバシーがない

という観点では相部屋でなくともあまり差がないのかもしれません。

となり部屋の声も筒抜けです。

 

当然ながら当時の旅人も特に相部屋になるときには、相宿の相手の

身なり、振る舞いを注意深く観察し用心を怠りません。

盗難も頻発していたらしいですから、用心が肝要です。

 

 

食事は晩飯と朝飯が提供され、頼めばお弁当も作ってくれます。

部屋食が一般的で、宿泊者が一堂に集まり食事をとるということは

なかったようです。

一部の料理宿(グルメ宿)を除けば、旅籠の料理はさほど大差なく

ごく普通であったようです。

 

 

元禄期には旅籠にお風呂がもうけられていたようですが、衛生上問題

のあったものも多かったようです。

沸かし湯にしてもどの程度の頻度で湯を沸かしていたかはなはだ疑問

で、小さな風呂桶に入れ替わりに宿泊者が入浴するのであまり衛生的

とは言えなかったようです。

 

 

寝具敷布団一枚に掛布団が一枚。

寒ければもう一枚掛布団が提供されます。

この時代、シーツなどはなく、浴衣の提供も一般にはありません。

 

旅籠の寝具についていえば、ノミ・シラミが宿泊者を悩ませた記録が

多く残っています。

いったんお客がノミ・シラミを持ち込めば、有効な消毒薬のなかった

当時では根絶は困難だったのでしょう。

 

 

最後に気になる宿泊料金ですが、現在の価格でおおよそ45千円が

普通だったようです。

今のビジネスホテルの料金と比べると、同程度か幾分安めでしょうか。
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