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大坂夏の陣に散った武辺者 真田幸村 後藤又兵衛 毛利勝永 [真田幸村]

 

大坂夏の陣は東西両軍合わせ戦死者2万5千を超える類例をみない激戦となった。

 

天下分け目の戦いと言われる関ヶ原の決戦でも戦死者の数は1万に満たない。

 

すでに戦いの行方が決しているなかで、何故これほどの戦死者を出す激戦となった

のでしょうか?

 

大坂夏の陣、戦国最後の武辺者たちの真にめざましい戦いがあったようです。

 

慶長19年(1614年)11月、徳川家康は30万人にのぼる大軍をもって

大坂城を包囲。

この大坂冬の陣の戦いは、真田幸村の活躍もありやや西軍(大坂豊臣方)有利で

あったが、翌月には休戦条約が結ばれ、老獪な家康の策略により天下の堅城大坂城

も二の丸、三の丸の濠までも埋められてしまいます。

 

慶長20年(元和元年)5月、家康は再び大軍を率い大坂城に攻め寄せる。

 

「この度の戰は手間がかからぬ、3日分の兵糧があれば充分だ」

濠を埋められ丸裸となった大坂城を遠望した家康はこう言ったそうです。

 

一方西軍豊臣側。

頼みとした豊臣譜代の大名たちは関ヶ原で没落、あるいは東軍(家康軍)に味方し、

大坂城にはいなかった。

大坂豊臣側が期待をかけたのは、関ヶ原合戦で領地を奪われ今は浪人の身と

なった旧大名とその家臣たちでした。

彼らは大坂冬の陣を前に豊臣側の招聘により入城していていました。

その中には真田幸村、後藤又兵衛、毛利勝永、長曾我部盛親、薄田兼相といった

高名な武辺者たちがいた。

 

 又兵衛.jpg

 後藤又兵衛 肖像画

 

武辺者(ぶへんもの)― 勇敢で軍功抜群の者、一群一城を領するほどの侍大将

 

彼ら武辺者たちは評定で東軍迎撃の献策をするが、大坂城の最高権力者である

秀頼の母淀君と彼女をとりまく女官グループが横やりをいれ、軍議は

まとまらなかった。

作戦首脳部が幾派にも分かれ、互いの主張が隔絶し統一がならない。

 

空転する軍議。

敗北は必至。

 

武辺者たちはもはや己の死後の功名にのみ悲願をこめたと思われます。

 

真田幸村の「ほかのお味方は家康に負けても、わしだけは決して負けぬ」との

言葉が伝わっています。

 

彼ら武辺者たちの最後の奮戦はまことに目ざましかった。

その見事な戦いぶりを伝える多くの逸話も残っています。

 

慶長20年(元和元年)5月5日、東軍は二手に分かれて京都伏見を発し、

大坂城を目指して進軍を開始。戦端が開かれる。

 

5月6日、後藤又兵衛、討ち死に。

かって「黒田八虎」の一人としてその武勇をとどろかせた又兵衛も、東軍伊達勢

の鉄砲隊にその巨体を撃ち抜かれ落馬、近習に介錯させた。

又兵衛の叔父 後藤助右衛門は又兵衛の最期を、「お手柄源平以来有るまじきと

申すとり沙汰にて御座候(まさに源平の世以来のみごとな戰ぶり)」と伝えている。 

 

同日、後藤又兵衛の救援に駆けつけた薄田兼相も戦死している。

 

翌7日、真田幸村率いる3,000人の赤備えの兵士が3たびにわたり

家康本陣に突入する。

 

「狙うは家康の首ただひとつ!」

 

家康に自刃をも覚悟させた凄まじい突撃であったが、力尽き幸村も首を討たれた。

 

同日深夜に大坂城は落城する。

 

翌8日、豊臣秀頼は淀君らとともに自害する。

介錯は毛利勝永がつとめたとされる。

 

池波正太郎の「戦国と幕末」に毛利勝永が登場します。

策謀と打算にみちた関ヶ原の戦いを、毛利勝永は「あのようなものは、

まことの武人の戦ではない」と評したとされる。

勝永は大坂城に入城した際、「わしは関ヶ原のやり直しをする」と周囲に語り、

夏の陣では幸村と並ぶ見事な活躍をします。

 

夏の陣は家康のもくろみ通りほぼ3日間の戦いで終結。

 

しかし死を賭した戦国最後の武辺者の‘武の意地’が大坂夏の陣の戦いを

類例をみない壮絶なものにしました。

 

お読み下さり有難うございます。

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 武辺者トートバッグ 後藤又兵衛モデル


真田幸村  日本一幸せな兵 [真田幸村]

 

いわゆる歴史系のテレビ番組が好きでよく見るのですが、強く印象に残っているものがあります。かなり以前に放映されたものですが、NHKの歴史ヒストリア。真田幸村を取り上げたもので、幸村が故郷上田に送った手紙が紹介されました。

 

「せっかく頂ける焼酎ですので、どうか中身がこぼれないよう口をよく締めてください」

「最近は寄る年波で、髭も白くなり、歯も抜け落ちてきた」

 

ゲームキャラ、アニメにも数多く出演?する人気者の真田幸村のイメージとは全く異なる手紙の内容に驚きました。

 

 

 真田幸村 戦国バサラ.jpg

「 戦国Basaraより」

 

 

手紙は昌幸、幸村の真田父子が惨敗を喫した関ヶ原合戦に連座した罪により処刑されるはずのところを幸村の兄信之の尽力で死一等を減ぜられ、高野山に流罪、その後移った山麓の高野山領である九度山での配流時代に書かれたものでした。

 

幸村は34歳から48歳まで実に14年間もの長い期間にわたって隠忍の日々を過ごします。

実際幸村の九度山での生活ぶりを伝える資料は乏しく、そこに真田十勇士などの伝説も生まれました。

 

幸村は幽居の日々をどう過ごしていたのでしょうか?

大阪の陣であれほどの華々しい活躍をした幸村ですから、「情勢分析に余念がなかった」、

「上記の手紙も徳川を油断させるためのもの」であったなどの見方もあります。

ただ14年はあまりにも長い。いわば働き盛りの人生の期間を幽居の身で過ごさねばならなかった幸村の心情は決して穏やかなものではなかったはずです。

豊臣側に請われ大阪城に入城した時、幸村には心中大いに決するものがあったでしょう。

 

武将にとりその名を後世に留めることがその宿願であったなら、400年もの後の時代の人々の気持ちを高揚させる真田幸村はある意味‘日本一の幸せな兵’だったような気がします。

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